大掃除の季節だ。
ここを読んでくださっている方の中には、この時期、家の大掃除と合わせて、お仏壇のお掃除(おみがき)をされているお宅も多いかもしれない。
お仏壇のお飾り(荘厳)というのは、なかなか細かいものも多くて、きちんと掃除をしようとすると、大掛かりになる。
畳の上に新聞を広げ、仏具やお飾りを一つ一つていねいに降ろして、分解して、金属磨きで磨いたり、新しい雑巾で拭きあげたりする。
お仏壇の中も綺麗に拭きあげ、磨き上げて、そしてまた元あったとおりに、仏具やお飾りを戻していくのだけれども、慣れていないと
「あれ?元々どうなってたっけ?」
なんていうことになる。
コツを言えば、(放光寺の住職様が教えてくれたことだけれども)お掃除を始める前に、写真を撮っておくといいそうだ。
今なら携帯電話で簡単に写真を撮ることができる。
また、勤行聖典には、お仏壇の荘厳の仕方が図入りで書いてあったりするので、それを参考にするのもいいかもしれない。
慈海の家では、今日お仏壇のお掃除をする予定だ。
お仏壇が綺麗になると、お参りするときもなんだか気持ちがウキウキとしてくる。
日々の日課が、さらに気持ちよく、楽しみになる。
先日、月忌のお参りにうかがった。
仏壇を見ると、いつにもまして綺麗になっている。
「おみがきしたんやぁ」
とおばあちゃんがいつものニコニコ顔で話し始める。
「お仏壇綺麗にすると、ほんと気持ちいいんやわぁ。綺麗になったやろ?綺麗になったやろ?
ほんとうに嬉しそうだ。おばあちゃんが続ける。
「あの子(息子さんのこと)やら、**ちゃん(お孫さんのこと)にも手伝ってもらって、ちょうど昨日綺麗にしたんやぁ。
わたし、もう脚も悪いで、一人やと大変やから、いつも手伝ってもらうんや。
ほんとに綺麗になったやろ?
お仏壇おみがきすると、気持ちいいもんねぇ。
胸がスーッとするねぇ。
だから、なおさら手伝ってもらうようにしてるんや。
お掃除すると、気持ちいいもんね。
一人でやると、自分だけ気持ちいいのはもったいないからねぇ。」
更に続けなさる。
「このお仏壇はねぇ、
お父さん(数年前に往生された旦那様)が大事にしてたし、
おじいさんもホントに大事になさってたから、
私がいる間は、大事にせなあかんなぁって、思うてるんやぁ。
あぁ、ほんとに綺麗になったわぁ。よかったぁ。」
そういって、手を合わせてお念仏をなさる。
『方便』という言葉がある。
“嘘も方便”というように、今では悪い意味で使われることが多いが、元々は
梵語ウパーヤ(upāya)の漢訳。近づく、到達するの意で、巧みな方法を用いて衆生を導くこと。
<教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版 注釈より>
という意味だそうだ。
つまり、如来の働きそのもので、智慧が慈悲となって具現したすがたを指すこともある。
しかし、気をつけなければならない。
一般論としてこの「方便」を語ると、それはたちまち、嘘になる。
自分を外において語られる言葉ではないのであろう。
仏教を学ぶと、ついつい哲学的な言葉遊びに終始してしまうことが多い。
「真実は、真実ならざるものを通してのみ、真実として現れるというてたなぁ」
という話を聞いた。
お仏壇の荘厳そのものが、仏様の真如のすがたと、手を合わせてこられた方々がいる。
西方極楽浄土は、実在の仏国土として、西の山端に沈む夕日に、手を拭い、お念仏されてきた方がいる。
その方々が手を合わせる先は、方便とか、真実とかそういう「チッポケな」言葉遊びを、とうに使い古した、言葉をもって言葉を超えた、実在の世界であったのだろう。
「浄土のない浄土真宗はないぞ」といつも聞かされている。
「浄土を真とすることを宗(ムネ)とするから、浄土真宗というんやろうなぁ。」とも聞かされた。
お浄土を、方便とか真如とかという分別でくくって、わかったふり、わからんふりをしていることが、真実の信心を得た姿とは、言いがたい。
それは、言葉の奴隷になっている姿かもしれない。
わからんふり、わかったふりが、一番の疑いの姿、最後の我の抵抗の姿かもしれないなぁ。
ようわからんけど。
「まぁた、わかってもえんことを、わかってえんもんが、わからんように話すから、わけがわからんことになる。」
と怒られそうだけれども、わからんまんまに
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
と称えれば、お悟りの世界そのものが、この慈海の周りに顕現されてるっちゅうから、やっぱりようわからんけど、とんでもない話なんやろな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ