声をかけられるのは困るのだ。ほうっておいてほしい。

お御堂で一人黙って座って、小一時間じっとしてらっしゃる方をたまに見かける。中には泣きながらお勤めをされていらっしゃる方もいれば、ぼうっとご本尊を眺めていらっしゃる方、うつむいてらっしゃる方、腕を組んでコックリコックリされてらっしゃる方、時には仰向けになって眠るわけでもなく天井をじっと眺めてらっしゃる方もいたりする。

こちらからそっと声をかける場合もあるけれど、大抵はこっそり様子をうかがうのみで、仏様との会話の邪魔をしないようにしている。

そういう方を見かけると、自分がかつてサラリーマンだったとき、キリスト教さんの教会で同じように、ひとりでぼうっと座っていたときのことを思い出すからだ。

声をかけられるのは困るのだ。ほうっておいてほしい。神様仏様とだけ、ひっそりと、誰にも、誰にも聞かれたくない話を、しているのは邪魔されたくない。

とはいえ、全く人の気配もないと言うのは、なんだか忍び込んでいるような気がして、悪いことをしている気分になる。だから、微かに人の気配があるだけで、ちょっとホッとするのだった。こちらに気づいているのかいないのかわからないけれども、でも誰かがいる。もし、大きな声を出したらフラットな笑顔、作り笑顔でも満面の笑みでもなく静かな微笑みの表情で「ようこそいらっしゃいました」と言いながら聖なる装いをされた方がふわりと顔を出してほしい。

そんな我儘なことを思いながら、微かに聞こえる衣擦れの音や、遠くに聞こえる静かな足音に、ちょっとだけホッとしながら、ゆっくりと神様やら仏様と話をする。

それってつまり、自問自答であったり、妄想との会話だったりするのかもしれない。言葉にしてしまえばなんとも青臭くて、どうでも良いこと、つまらないこと、くだらない悩みなのかもしれないけど、でも、世間の喧騒のなかでかき消されてしまうような、そんなちいさなモノローグを、安心して吐露できるそういう場所というは、いつの間にか社会人になって、いつの間にか常識人になって、いつの間にか正解ばかりを求るようになってしまった、そんな「オトナ」になってしまった私には必要なのだったと思う。

「宗教」というのは、時として喧しすぎる。

だけれども、仏像も、絵像も、十字架は、何も語らずそこにあるのだった。宗教は、本来「沈黙」であってほしい。

言葉が聞こえるのは、自分の口からだけで十分なのだ。「南無阿弥陀仏」の念仏だって、勝手にどこからか無理やり聞かされるのだったら、ありがたくもなんともない。私の口から私が思ったときに、言葉となって聞こえてくるからこそ、なのだろう。

そんなことだって、でもやっぱりどうでもよくて、ただただ手を合わせられる場所があって、静かに誰にも聞かれたくない話を、誰からも声をかけられることなく、そこに座っていられるそんなところがあるというのは、とても頼もしいことでもあった気がする。

なんまんだぶ