分厚い「遊び」道具たち

先日、広辞苑を購入した。

「お前は言葉を知らん。言葉を打ち破るために、まず言葉を知れ」
と言われ、
「下手な本を買うより、辞書を買え。辞典を買え。それは一生モンや。」
と言われ、
少しづつ辞書やら辞典やらを揃えていった。

最初に買ったのは漢和辞典。
角川の「新字源」はほんとうに使える。
言葉を調べるときには、まずその言葉の字義から調べる。
漢和辞典というのは、マイナーな辞典と思っていたけど、実は一番使うように成ったかもしれない。

次に買ったのは岩波の「古語辞典」。
今普通に使っている言葉でも、昔は全く違う意味だったりする。
特に古い書物を読むときは、ちょっとしたニュアンスを、今の感覚で読み飛ばしてしまうと、解ったようでわからなくなっていく。
時には、全く逆の意味で理解してしまうこともある。
「あわれ」とかなんかそうだ。
そういう意味では、古語辞典は日本文化の教科書的な存在かもしれない。

そして、「仏教語大辞典」。
言わずと知れた、中村元さんの”名著”だ。
これは、本当に高かった。
そして、今言えにある辞典類の中で、一番大きい。
場所がかさばる。
そして重い。
持ち歩くと体力がつくので、そういう意味でも使える。
が、なによりも、仏教関係の専門用語の造詣の深さについては、当然国内最高峰だろう。
なにがすごいって、その言葉の出処が網羅されていること。
同じ言葉でも、経典などが変わると微妙に意味合いが異なったりする。
これは、辞典というより、中村さんの壮大なイチ学術書かもしれない。
とにかく、これは仏教の勉強をするのに欠かせない。

で、次に岩波の「仏教辞典」。
「仏教語大辞典」は字義や出処は網羅されているが、説明が少ない。
こちらはその辺説明が丁寧だったりする。
なので浅学の慈海にはとても重宝している。
何よりもコンパクトなので持ち運びに便利。ちょっとした勉強会なんかに、かばんに潜ませておくと、こっそりカンニングができるので便利だ。

そして、そして、先日購入した岩波「広辞苑」。
現代日本で使われている言葉の、”平均的な”語義を再確認するのに、とても便利だ。
なによりも、『広辞苑によれば~』と言う説明ができる。
これ、意外と便利。
言葉って、結構知っているようで、ちゃんと説明しようとすると、意外とキチンと定義できなかったりする。
慈海にありがちなのは『~~~、、な感じ?』とぼやかしてしまったりする。
現代の日本語であっても、実はニュアンスでしか理解していなかったりする。
この、広辞苑は、そんな曖昧な理解を、きちんと定義しなおしてくれるので、仏教の勉強以外でも一生モンになるのは間違いない。

『学びて後に疑いあり。疑いて後に問いあり。学ぶは真似るや。でもただ真似たらあかん。疑いを持って学べ。疑いは問いになる。問いがあるからこそ、学びとなる。それが学問というんや。常に疑って学べ。』
と、常に言われている。

たとえ御聖教でも、経典であっても、論であっても、釈であっても、疑って読むと面白い。
疑うと、調べたくなる。
だから、ちょっとした本でも、気づいたら上の辞典・辞書類が散乱し始める。
そして、辞典や辞書を開くたびに、驚きがある。
こんなに面白いおもちゃに、どうして今まで気づかなかったんだろうって、ちょっと悔しい気持ちになる。

40手前になって、初めて「勉強」が楽しいんだと、気づいた気がする。
学生の時、授業に出るのが楽しくてしょうがなかった。
学びたいことを学べる喜びというのがあった。
今は、そのワクワクが、自分の家の部屋の中の、こたつに埋もれて、寝っ転がって、楽しめる。
勉強って、楽しい。

言葉一つ一つが、慈海を驚かせようと、待ち構えているんだよなぁ。
辞典や辞書のページなかで、虎視眈々と。

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