仏法者のすがた

今朝も雨音を聞きながらの晨朝勤行(朝のお勤め)であった。

中宗堂で御文章を拝読し、立ち上がるとお御堂の外を歩くものが見えた。小さいサビトラ柄の彼か彼女かは、雨に濡れながらゆっくりとした足取りで木陰に隠れていった。

殊勝にも朝のお勤めを聞いていたのかもしれない。御文章を聞き終わって、今日一日の生業(なりわい)に向かったのだろうか。

雨にその毛皮が濡れるのも厭うどころか、仏恩報謝にその身を浸す姿に、なんだか負けたなぁという思いになって、姿が見えなくなったその木陰に向かって手が合わさった。

この慈海というのは、仏様を敬う姿も、仏恩報謝のすがたも、いつも誰かの目を気にしていて「どうだ?俺はまじめな仏法者であろう?」と誰かに見てもらいたがっている。真剣な求道、熱心な聴聞、命がけの精進。そういった者として同行同侶に見られたいとばかり腐心し、人に見られる姿ばかりをはぢているのだ。

しかし、人知れず雨に濡れる姿も厭わず、だれに見せるわけでもなくひっそりと、軒の外からひっそりと、お勤めをされていたその彼か彼女かの姿は、仏法者のすがたどころか畜生道に身をやつされた姿であった。

今朝の御文章は四帖七通いわゆる「六か条」の御文章であった。その六か条のうちの一つに次の掟がある。

当流の念仏者を、あるいは人ありて、「なに宗ぞ」とあひたづぬること、たとひありとも、しかと「当宗念仏者」と答ふべからず。ただ「なに宗ともなき念仏者なり」と答ふべし。これすなはちわが聖人(親鸞)の仰せおかるるところの、仏法者気色みえぬふるまひなるべし。このおもむきをよくよく存知して、外相にそのいろをはたらくべからず。まことにこれ当流の念仏者のふるまひの正義たるべきものなり。

なんと、申し訳のないことだろうか。

なんまんだぶ