なんかに載せようと思っていた日常のこと。何書いているかわからなくなった、一昨年のはなし。facebookに書いたものを転載。
炎天の下、外掃除をしていたら声をかけられた。
この場所のことを簡単にご説明しているうちについつい仏様の話になる。声をかけられた方が徐々にうつむかれて、顔を上げたときには目に涙がたまっていた。「ずっと昔に亡くなったじいちゃんが、よくそんな話をしてくれた。」と手を合わせて行かれた。
その日の夕方、掃除を終えてシャワーを浴びようとしたところ、電話がなった。出ると、いつも良くしてくださっている方からであった。難病を発病されていた。「もうあかんわ」と泣きそうな声が携帯から聞こえてくる。「いままでずっと自分のことで泣くのを我慢されてきたでしょ。そろそろ、泣いていいんじゃないですか。」
そう話すと弱弱しく「そうね。ふふふ」と笑われた。
その電話と前後して今度は、日が暮れるころふらりと境内に入ってこられた方があった。近所の方である。最初は玄関先で世間話から始まり、日が暮れてからは会館に入って気が付けば深夜まで話し込んでいた。世間話だったはずが、その方の話は途中からお子さんの病気の話になっていかれた。慈海も泣いた。
普段は誰にも見せない顔を誰もが持っている。
誰かに自分を知ってもらうための顔でもなく、誰かに何かを伝えるための顔でもない。その顔は、自分自身にさえも、見せることも、知りえることもない顔であったりする。慈海にもそんな顔があるし、これを見てらっしゃる方にもきっとあるだろう。
そこに、「宗教らしいこと」を語るのは簡単である。いつも照らしてくださる仏さまとか、もっともらしいセリフでその場をごまかすことは簡単なことだ。責任を持たなくて良いから。無責任にもっともらしい言葉で、定義付けし、分別し、決めつけ、わかったような振りができる。
自分に自信がないときほど「仏教では〜」とか、「浄土真宗では〜」という話で、自己を欺瞞し、人様の苦悩を他人事にし、「私」が不在になる。仏教の話をしているのでも、浄土真宗の話をしているのでもない。今ココにある苦悩の話をしているのだ。今ココの、この胸を悩ませ、この身を煩わせる、思い通りにならないコト、わかっているけれどもどうしようもできないコト、そんなモノ・コトに対峙せざるを得ない、そんな理不尽さの話をしているのだ。
煩悩に対峙する道具に、このお念仏をしてもよいのであろうか。自己肯定するための矛にして、自己欺瞞のための盾にして、自己を正義化するのが、このお念仏の教えであったか。
矛盾を解決したいのではないのだ。ただ、その矛盾に身をやつし、心を沈め、自らがその矛盾そのものでありながら、それでも真実そのものとなっていかれたのが、仏の道ではなかったのか。
私の話だ。
今、ココの、この私が仏に成るという話を、慈海は聞いているのだ。いつか、何処かで、誰かが、なんかわけのわからん何かになるなんて話ではない。
なんまんだぶ