ドラ息子は「そうやね…」とだけいって

ふきのとうがではじめたということは、外掃除がまた徐々に忙しくなっていくということです。お疲れ様です。

週に一度は父母と食事をするようにしているのですけれども、外食をした後実家に戻った時には、母は何を食べたのか、一緒にどこに行ったのか、そもそも食事をしたのか、外出したのかどうかさえも忘れてしまうのが、いつものこと、平常運転、通常運行、デフォルト状態、初期設定、になってきていて、別に驚くこともそのことにショックを受けることもなくなってきました。

父は時折「分らんなっていくのが、もつけねぇ(かわいそう)や…」と憐れんで泣くこともありますが、それに向かって「かわいそうというのは傲慢なことや。」なんて白々しい分かったようなことをいうことこそが傲慢なことで、父だってそんなことはわかっているけど、つい息子にそうやってグチをいいたくもなるものなのでしょう。ドラ息子は「そうやね…」とだけいってただ聞いているのでした。

人の姿も心の中も、外に出てくる見えてる部分なんて言うのはほんのわずかなことだけで、そのわずかなことだけをやり玉に挙げて、他人の姿も心の中も、決めつけてしまってしまった方が、よっぽど楽な生き方でしょうし、それはそれで、世間を楽に生きる上では楽なことかもしれません。まぁ怠惰とは思いますけど、怠惰が悪いことということではありません。

忘れてしまう母も、憐れむ父も、それはそれで母の、父の、表層に現れてきた微かな澱(おり)のようなもので、それが母の、父の、すべてではありませんでした。

外に見えるものは、外に見せるものだけ。
外に見せられないものは、外にみせられないものだけ。
どちらが本物かなんてことは、くだらない思考遊戯でしかないので、まぁ、わからんものは、わからんのです。わからんものは、わからんまんまにしておくしか、無いじゃないですか。

母はいずれ私を忘れるかもしれません。
わたしを忘れる母をさえも、私自身がいずれ忘れていくでしょう。

おぼえていることや、しっかりしていることが、その人を構成しているわけではないのです。

わからんまんまに、慈海は祖母のまねをして、なんまんだぶ とつぶやきます。なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ と叫ぶように夜の吉崎でうろついていることもあります。

祖母と同じお念仏ではありませんが、出てくるものは、きっと同じものでしょう。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ