あの時助けられなかった慈海を叱っておくれ

手を合わせている姿ほど、人のふるまいの中で最も美しい姿ははないと思う。

日没勤行を終えて中宗堂をでると、こちらに向かって合掌されていらっしゃる方がいらっしゃった。お御堂から読経の声が聞こえたからだろうか。そのお姿の美しさに心が震えながら、せっかくならお御堂の中まで入って来てくださったらと思った。もっと近くでそのお姿に、こちらもまた手を合わせさせていただきたいと思ったからだ。いやしかし、お御堂から聞こえてくる経におもわず手を合わせられたのだとしたら、それもまた尊いことだと考えなおしながら、お念仏つぶやきつつ勤行の後始末をしてお御堂を出てお内仏間に向かった。

吉崎別院ではお勤めをする場所が3か所ある。本堂と、蓮如さんがいらっしゃる中宗堂、そしてお内仏という会館にあるお仏壇だ。本堂の後に中宗堂、そして会館に移動し最後にお内仏間でお勤めをする。

お内仏間で今日最後の日没勤行を勤め、今日も終わったなぁと廊下に出ると、会館の窓ガラスの外に、鳥がうずくまっている姿が見えた。雀よりもふたまわりくらい大きく、カラスほどは大きくない。鶯だろうか?鳥にはあまり詳しくないので種類はわからないけれども、地面にふせるようにしてじっとしている。

なんとなく気になって、窓ガラスのこちらからしばらくじっと見ていると、時折バランスを崩したかのようにフラフラと倒れてはまた体を起こしということを繰り返している。寒さに力尽きたのであろうか。病気であろうか。心配になって思わず窓ガラスを開けすくい上げようとして、思いとどまった。すくい上げたところでどうしていいかわからなかったかだ。

温めてあげればよいのだろうか。動物病院を探そうか。いろいろと頭の中をめぐる。もしかするとこの場所で、静かに最後を迎えようとしているのかもしれない。動かさない方がいいのだろうか。その鳥の名前さえも分からない私に、何ができるのか。目をつぶってうずくまるその鳥の姿に、何かしたくても何をしていいのかわからないで見ていることしかできない自分の知恵のなさが、情けなく感じた。

くしくも、その場所は中宗堂のお勤めの声も、お内仏間のお勤めの声もよく聞こええる場所である。もし、もしこれがこの鳥の今生最後の姿だとしても、最後に経を聞けたことによろこんでくれているだろうか。いや、そんなことを考えるのは、人間の傲慢かもしれない。それでも、どうかどうか、最後に如来のお慈悲があるぞと聞かせてやりたくて、叫ぶように本願文を暗唱した。

設我得仏せつが-とくぶつ 十方衆生じっぽう-しゅじょう 至心信楽ししん-しんぎょう 欲生我国よくしょう-がこく 乃至十念ないし-じゅうねん 若不生者にゃくふ-しょうじゃ 不取正覚ふしゅ-しょうがく 唯除五逆ゆいじょ-ごぎゃく 誹謗正法ひほう-しょうぼう

次は人の言葉が分かる姿で生まれてきてくれよ。そして、どうかどうか次の命でもこの言葉に出遇ってくれよ。如来様がいなさるぞ。阿弥陀という仏様がいなさるからな。あんたのために仏様になってくださった方がいらっしゃるぞ。よかったなぁ。よかったなぁ。どうかどうかいくら生まれ変わっても、どれだけの命を生きたとしても、どうかこのお念仏にでおうておくれ。次はお浄土であわせてくれな。そしてその時には、あの時助けられなかった慈海を叱っておくれ。金色の仏の姿で叱っておくれ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶと、お念仏を繰り返していると、鳥の首が震えてそのままはたりと倒れた。息を引き取ったのか、わからない。けれどもそのまましばらく眺めていても、もう動かなかった。倒れた姿が、まるで合掌している人の姿のように見えて、ああ美しいなと、またお念仏を繰り返した。

なんまんだぶ