「慈海くんの話す法話が聴きたいんやぁ」
用事でお宅に寄った帰り、車に乗り込んだ慈海にお手製の漬物を渡しながらその方は、優しく微笑まれた。
ガンを患われているうえに難病指定の病まで併発し、立っているだけでも苦しいだろうにその方はよたよたと杖をついて、玄関の外にまで出て、慈海を見送ってくださった。
吉崎別院での御忌法要の為、長年病気の体を押してお手伝いをしてくださっている方である。この地に嫁いですぐのころは、つらいことがあると別院に来ては草むしりをしていたという。誰かに話すことも、言葉にすることさえもできないたくさんの胸の内の思いを「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……」とお念仏の言葉にして、こぼれる涙と共にこの境内にしみこませて行かれた方が、昔から人知れず無数にいらっしゃる。その方もこの地で蓮如さんの御教化を賜ったそんな念仏者の一人である。
「こんな体だから……今年は御忌にいけなさそうだわ。」
数か月前から電話でお話しするたびに、寂しそうにそうおっしゃっていらした。この日訪ねたときもまた、微笑みながらうつむいて、小さい声でそうおっしゃった。その姿を見て、口には出さなかったが、個人的にこのお宅にお参りに来れないだろうかと考えていた。そんな思いを感じられたのか、帰り際に「慈海くんの話聞かせてくれるか?慈海くんの話す法話が聴きたいんやぁ。」と、唐突におっしゃられた。
慈海は喋りがうまい方でもない。布教について学び研鑽を続けているわけでもない。心動かすような話術ももちあわせていない。教学もちゃんと学んできたわけでもないし、日々お聖教に頭を突っ込んでいるわけでもない。自慢できるような豊富な人生経験があるわけでもないし、物事を鋭く洞察できる目を持っているわけでもない。むしろサボり症でめんどくさがりで、その上覚えも悪く、乏しい人生経験に引き寄せて、この仏法を自分勝手に聞き、自分勝手に解釈して、それを叱られて、反省して、自信を無くしてばかりを繰り返している。
そんな慈海が話す法の話を聴きたいと、その方はおっしゃる。人一倍苦労を重ねて、挙げ句特にここ数年は大病と日々戦い続け、人の世の酸いも甘いも知り尽くされたかのようなそんな方が、である。
慈海であれば、そんなことが言えるだろうかと、帰りの車の中で考えていた。もし慈海が齢七十を超えたとき、自分の息子ほどの歳のものに、そんなことが言えるだろうか。たいして苦労もしていなさそうな、たいして勉学布教に長けたわけでもないものに「あなたの話す法を聴かせてほしい」と言えるだろうか。
今朝、その方が持たせてくださった漬物をカリカリとかじりながら、「法を聴く」ということを思っていた。蓮如さんは「仏法はただ聴聞に
今年も、吉崎では蓮如上人御忌法要が始まる。蓮如上人の御遺徳をしのび多くの念仏者の方々と供に、この往生極楽の道を聴聞させてくださる法要である。
その蓮如さんご教化の形見の地であるこの吉崎で、日々蓮如さんの前でご教化を賜りながら、自分は何を聴いてきたのであろうかと打ちひしがれる。そんな、法の前に打ちひしがれた姿で、この慈海をそのままと仰せになる御恩の話を、これからもしていかなければならないのだろう。それもまた、聞かせてくださるお育てなのだろうか。
「一生聞法痴心未了」
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ