「仏様に奉仕する」ことを望みながらも

昨年の秋から毎朝おそうじをてつだってくださり、お晨朝お参りされるようになった方が、仕事の都合でお掃除の手伝いができなくなってしまったとのことでした。

「お参りだけは何とかできるようにしようと思って」
とお晨朝だけはお参りされるのですが、掃除ができないことが残念だとおっしゃるのです。

慈海であれば、できるだけ朝は遅くまで寝ていたいし、体動かすの面倒だし、朝から汚れるのもうっとうしいし、そのあと正座するのもしんどいし、っていうか頑張ってても誰も見てくれるわけでもほめてくれるわけでもないし、そもそも自分の家でもないし、掃除できなくなったからって残念に思うことなんて全くないだろうなと思うのです。

この方だけじゃなく同じように「仏様に奉仕する」ことを望みながらもいろんな事情でできない多くの方々がいらっしゃるんだと思うのです。

身近なところで言えば、慈海の祖母もそうだったかもしれません。祖父だってそうだったかもしれません。できないからせめてと乏しい家計から少なくない懇志を包み、事あるごとにこの吉崎にも、ほかのお寺様にも、もちろん御本山にも納めてこられたんだと思うのです。

慈海は現代の合理的な教育を受けてきたので、どうしてもそういうところが理解できません。できないけれども、尊いと思います。掃除ができないことが残念と思われる姿が、ありがたい姿と思います。

やもすれば「社会的な責任」とか「生活のため」となってしまいがちな「働く」ということは、「端(ハタ)を楽(ラク)にすることやぞ」ということなのだと昔聞かされました。

端(ハタ)というのは隣の人、他人ということでしょうか。他を楽にするために体を動かすのだということでしょうか。それはつまりは他の荷い(ニナイ)を背負うということでしょうか

慈海にはそんな殊勝なことはできないし、自分のことで精いっぱいで、他人の荷いを背負うなんてカッコつけたことは到底できませんけれども、今ここで、こうして奉公させてくださっているということは、「お掃除したいけどできないの…」とおっしゃる方々のその荷いを、背負わせてくださるそういうことなのかもしれないなと、なんだかかたじけない思いになりました。

今の時期は風が吹くたび花粉が降り積もり、外に面した床はすぐに真っ白に汚れていきます。メンドクサイ ウットウシイ とモップをかけながらも、ありがたいことをさせてもらってるんやろうなとふと思うと、申し訳ない気持ちにもなります。

なもあみだぶ