「あぁ、慣れたと思っていたのか」

先日お取次したご法話の録音を聞き返していて、途中とても辛くなって一旦停止ボタンを押した。

何を辛く感じたのかがわからなくて、腕組みをしてしばらく天井を眺めていた。

自分の拙い喋り口に恥ずかしさを感じるときもあるし、ついつい拙い知識をさも自分の手柄のように話そうとしている自分(教位に立とうとしている自分)に気づいて殴り倒したくなる時もあるけど、辛くなって聞くのをやめることというのは、久しぶりのことであった。

ぼんやりとお取り次ぎの時の様子を思い返し、これまで聞かされてきた話を交互に思い返ししながら、「あぁ、慣れたと思っていたのか」と気づいて、愕然とした気持ちになった。

お取り次ぎの内容がとか、喋り口がとか、話しているときの心構え云々とかそういうことではなくて、「辛い」と感じるようになったことが問題であった。

わかりやすく言うと、どこかで慈海は「こういう者でありたい」と思う理想を演じることに慣れてきてしまっているのかもしれない。

上手な坊主なんてくそくらえと息巻いていながら、上手に坊主を演じることが板についてきていると、自分で思い込みながら、それに違和感どころか心地よさまで感じるようになっているのだろう。

綺麗な言葉を使うのに慣れて、美しい念仏者などという、文字にしても汚らしくてしかたなのない、そんなものにでもなろうとしていたのだろうか。

お御法(おみのり)は、この煩悩を自ら慰め、美化し、守るための飾りでも衣装でもないのになぁ。

上手な坊主にも、下手な坊主にも成りきれない上に、上手に世を渡ることも、下手に世を棄てることさえもできない慈海は、一体どこにいるんだろうか。

なんまんだぶ