なぜ、母はあの時生きながらえてくれたのだろうか

交差点で信号が青に変わるのを待っていると、ハザードを点灯させた車の運転席から男の人が降りてきた。故障でもしたのかと様子を見ていると、その車の前で何かを拾うような仕草をしている。何度も腰をかがめては何かを拾い上げ、歩道の方に運んではまた車道に戻りと繰り返しているその手元をよく見ると、何か小さくて茶色い動くものが抱えられていた。

信号が青に変わり、車をゆっくりと前に進めると、歩道には大きなカルガモの母親と、小さなその子どもたちが落ち着かない様子でその男の人を見守っていた。どうやら道を横切るときに、歩道の段差を越えることのできなかった子ガモを、その男の人は母親のいる場所まで運び上げていたようであった。

車窓をあけると「ピヤピヤピヤピヤ」と子ガモたちが盛んに鳴き合っている。バックミラーをチラチラと覗くと、凛として首を高く伸ばしながらも、不安そうにその首を揺らしながら、我が子供が人に助けられる様子を見守る母親の姿が目に入った。

人が近づけば身の危険を思いその場からすぐにでも立ち去りたいはずだ。けれどもその恐怖を抑え、不安を押し殺し、我が子を敵か味方かわからない人の手に委ね、騒ぐ子どもたちから離れることもせず、じっと運ばれる様子を見守るしかできないその母の気持ちは、どのようなものであろうか。

何度も腰をかがめて子ガモたちを拾い上げる男の人の姿と、騒ぎながら母親の周りでうろつく子どもたちの姿と、その母の姿を心に残しながら、徐々に車のスピードを上げつつ、先日父からかかった電話のことを思い出していた。

晨朝のお勤めが終わったのを見計らったかのように父から電話があったのは数日前であった。朝から電話がかかるというのはよほどの用事だろうかと、不安を感じつつ電話に出ると「忙しかったかぁ?あはは、なんでもないんやぁ」ととぼけた父の声が聞こえてきた。

「なんでもないことないから電話してきたんやろ?」と言うと、父は「あははは、まぁ、ほんとに大したことではないんやけどな」と、声のトーンを落として、昨晩のことやけどなと話し始めたのは、予想していたとおり母のことであった。

「いろいろな、覚悟はしてるつもりやけど、昨日はな、ちょっと驚いたことがあってな…」ぽつぽつと話しながら、冷静さを保とうとしている様子である。よほどショックな事があったのであろう。

「お母さん、昨日の晩、シャワー浴びてくるわって風呂場に行ってな。まぁ、そんでしばらくしたら出てきたんやけど、こんなこというんや。”頭って……どうやって洗うんや?”って……。」

以前であれば声を荒げて「何いうてるんや?アホでねんか!頭の洗い方もわからんなったんか!?」と父は言いそうであったが、ショックを抑えながら「頭に湯かけてシャンプーでくしゃくしゃくしゃと洗えばいいんでねんかぁ?」と答えたそうである。母は「そやのぉ。なんでこんなこともわからんのやろ……」と落ち込んでいる様子であったらしい。

「そんだけでないんや。他にもな……」

きっと父もこの先どうなるのかが不安であったのだろう。洗濯の仕方がわからなくなったこと、お仏壇のお花の手入れができなくなったこと、いつもだったら何も考えず、意識もせずにしていたはずのことができなくなっている母の様子をいくつもいくつも話し始めた。

涙ぐむ様子でもなく、笑い話のように話すわけでもなく、淡々と話す父の声が少し心配になった。

波のように、母の調子が悪いときと良いときが訪れる。そして、波が押し寄せては引いてを繰り返しつつも少しずつ少しずつ潮が満ちていくように、良いときよりも悪いときの頻度が大きくなっていく。実家に帰って母の様子を見るたびに、口でははしゃぎながらも、なんだか目の光が弱々しく生気を感じられなくなっていくようにも感じる。それでもまだ、体は元気で歩き回ることも、道端であった人と「久しぶりね!」と(実際は誰だかわかっていないのだが)取り繕いながら元気であることを装うこともできるのだが、それも身に染み付いた条件反射的に口が動いているだけのようでもある。

そんなことを思い出しながら車を走らせていると、なんとなく仏様の話が聞きたくなった。運転中であったので、携帯に保存してある法話を探すのも億劫であったので、正信偈を暗唱しながらハンドルを握る。自分の口から御開山聖人の最高のご法話を聴聞する。少しずつリズムが乗ってきて、だんだん声が大きくなる。大きな声で正信偈の言葉を追いながら、母が自らの命をもって、この息子に見せ聞かせしてくださっているこの姿は、一体何なのだろうかと考えていた。

数年前、高いところから落ちて頭蓋骨を骨折し、母は一度死にかけた。当時東京にいて実家と連絡を絶っていた私は、そのことを知りながらも実家に帰ることも、連絡を取ることさえもしなかった。父から届いたメールに添付されていた、痛ましい姿でベッドに横たえられている母の様子を見ながら、もし母が今死んでも、きっと葬式に帰ることもしないだろうなと、マンションのベランダでタバコを吸いながらボンヤリと考えていた。

母は、あの時死ななかった。
もし、あの時死んでしまっていたら、今頃私はどのように母を思い出していただろうか。少なくとも、福井に帰る場所なんてなくなっていたであろうし、坊主になることっもなかったかもしれない。

なぜ、母はあの時生きながらえてくれたのだろうか。
生きながらえたからこそ、その分老いることの恐怖を今味わっているのだろうか。そこまでして、何を息子に教えようとしているのであろうか。

なんまんだぶ

「仏法はただ聴聞に極まれり」ということはどういうことであったか。

「慈海くんの話す法話が聴きたいんやぁ」
用事でお宅に寄った帰り、車に乗り込んだ慈海にお手製の漬物を渡しながらその方は、優しく微笑まれた。
ガンを患われているうえに難病指定の病まで併発し、立っているだけでも苦しいだろうにその方はよたよたと杖をついて、玄関の外にまで出て、慈海を見送ってくださった。

吉崎別院での御忌法要の為、長年病気の体を押してお手伝いをしてくださっている方である。この地に嫁いですぐのころは、つらいことがあると別院に来ては草むしりをしていたという。誰かに話すことも、言葉にすることさえもできないたくさんの胸の内の思いを「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……」とお念仏の言葉にして、こぼれる涙と共にこの境内にしみこませて行かれた方が、昔から人知れず無数にいらっしゃる。その方もこの地で蓮如さんの御教化を賜ったそんな念仏者の一人である。

「こんな体だから……今年は御忌にいけなさそうだわ。」
数か月前から電話でお話しするたびに、寂しそうにそうおっしゃっていらした。この日訪ねたときもまた、微笑みながらうつむいて、小さい声でそうおっしゃった。その姿を見て、口には出さなかったが、個人的にこのお宅にお参りに来れないだろうかと考えていた。そんな思いを感じられたのか、帰り際に「慈海くんの話聞かせてくれるか?慈海くんの話す法話が聴きたいんやぁ。」と、唐突におっしゃられた。

慈海は喋りがうまい方でもない。布教について学び研鑽を続けているわけでもない。心動かすような話術ももちあわせていない。教学もちゃんと学んできたわけでもないし、日々お聖教に頭を突っ込んでいるわけでもない。自慢できるような豊富な人生経験があるわけでもないし、物事を鋭く洞察できる目を持っているわけでもない。むしろサボり症でめんどくさがりで、その上覚えも悪く、乏しい人生経験に引き寄せて、この仏法を自分勝手に聞き、自分勝手に解釈して、それを叱られて、反省して、自信を無くしてばかりを繰り返している。

そんな慈海が話す法の話を聴きたいと、その方はおっしゃる。人一倍苦労を重ねて、挙げ句特にここ数年は大病と日々戦い続け、人の世の酸いも甘いも知り尽くされたかのようなそんな方が、である。

慈海であれば、そんなことが言えるだろうかと、帰りの車の中で考えていた。もし慈海が齢七十を超えたとき、自分の息子ほどの歳のものに、そんなことが言えるだろうか。たいして苦労もしていなさそうな、たいして勉学布教に長けたわけでもないものに「あなたの話す法を聴かせてほしい」と言えるだろうか。

今朝、その方が持たせてくださった漬物をカリカリとかじりながら、「法を聴く」ということを思っていた。蓮如さんは「仏法はただ聴聞に極まれり」と仰せになられた。ただ口に仏名をつぶやき、ただ聞いてきた話を自らの手柄のように人に語り、仏法者然とふるまい、念仏者らしいもののように思われることが、仏法を聴聞する念仏者の姿ではなかったはずであるのに、いつしか仏法がこの自分自身を表現し、他人と差別するためだけの道具になっていやしないか。そんな私であれば、きっといくら歳を重ねても、慈海のようなものにでさえも「法を聴かせてほしい」とは言えることはないだろう。

今年も、吉崎では蓮如上人御忌法要が始まる。蓮如上人の御遺徳をしのび多くの念仏者の方々と供に、この往生極楽の道を聴聞させてくださる法要である。

その蓮如さんご教化の形見の地であるこの吉崎で、日々蓮如さんの前でご教化を賜りながら、自分は何を聴いてきたのであろうかと打ちひしがれる。そんな、法の前に打ちひしがれた姿で、この慈海をそのままと仰せになる御恩の話を、これからもしていかなければならないのだろう。それもまた、聞かせてくださるお育てなのだろうか。

「一生聞法痴心未了」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

「毎月の寄合をいたしても、報恩謝徳のためとこころえなば…」もっと慈海頑張ろうと思った今日の出来事の話。

今日は本願寺吉崎別院で、加賀両度講の報恩講がお勤まりになられました。
「両度講」といえば、御文章にもでてくる由緒ある御講です。広如上人の時代に一度廃絶してしまったようですが、おそらくこの両度講をこの地で復活させたものか、この地に加賀両度講という御講があります。大変多くの講員数を誇る御講ではありましたが、残念ながらここ数年、年を経るごとに講員の方々の高齢化が進んでいることもあって、この報恩講にお参りに来られる方もどんどん少なくなってきました。そして今年は、寂しいことですが、たった六人だけの報恩講でした。

吉崎別院の職員も、ご輪番様と参勤そして臨時勤務員という肩書の慈海だけの三人だけです。名いっぱい声を張り上げて、お勤めをしました。この両度講のお勤めの声が、この別院境内を超え、吉崎の地域も超え、越前加賀の国を超え、京都までも、いやこの日の本の国中に響けとばかりに、腹の底から声を出し切ったお勤めでありました。

寂しい報恩講とはいえ、今年もそれでも無事にお勤まりになったことにほっとしたところ、境内の老朽化した電気配線の検査をお願いしていた業者さんがいらっしゃったので、衣姿のまま境内に出て業者さんとお話ししていると、遠くから慈海を見ながらひそひそ話をしている家族連れのような方がいらっしゃいました。

「ようこそのお参りです」と声をかけると、なんとこの前の夏にも県外から参拝に来られた方でした。久々の再開をよろこびつつ、でもどうしてわざわざ遠いところからまたこの吉崎に来られたのかが気になってたずねると、前回本堂でご案内してお話ししたのが心に残っていたらしく、また行こうということになって来られたとのことでありました。

なんだかとてもうれしくなってゆっくりお話ししたかったのですが、業者さんとの話もあったり、ほかの寺務的なことも立て込んでいたので、じっくりお話しできなかったのが申し訳なかったのですが、代わりに、慈海の好きな蓮如さんの御詠歌をご紹介すると、またとても喜んでくださってお帰りになっていかれました。しかしその際に、「この前の夏に来たときは境内がすごく綺麗で感動していたのですが、きょうは少し荒れていて…心配していたんです」とおっしゃっていかれました。とても遠くから、「また来たい」といらしてくださったことにうれしくなりながらも、境内の荒れようを気にされていらっしゃるその声に、胸が痛みました。先日の台風で経堂の屋根が散乱し、また今年は雨も多く、それを言い訳に外の掃除が行き届いていませんでした。もっと頑張れたんじゃないか、もっと綺麗に出来たはずじゃないかと、反省もしました。とても申し訳ない気持ちになりました。

蓮如さんの御威光は、今もこの地に熱くひかりをはなっていらっしゃいます。その御威光は紛れもなく無数の念仏者の方々が必死につないできてくださったものでもあります。蓮如さんが身命を賭してこのわれらに伝えてくださった「後生の一大事」ということを、そして「浄土真宗」というカタチ、つまりお念仏をよろこび、後生をたずね、安心(アンジン)を沙汰しあうことができる集まりというカタチを、後世に残していくためであったことであります。それはまさに、報恩の思いがカタチとなった場所であります。

諸行無常のこのわれらの世界で、常ならざる者ばかりをよりどころとし、目先の茶飲み話にもならないことに終始して、仏恩を思うことさえもままならぬ日常を過ごしてしまいがちな時代かもしれません。ですが、それは今に始まったことではなく、蓮如さんの時代からもそうでありました。それでも、蓮如さんはこの地から、お覚りの智慧の光が常にこのわが身を照らしてくださっていることをお示しくださいました。

慈海ができることは、ただこの場所を守ることだけであったな。懈怠ないように、安心して気持ちよく、安心(アンジン)の沙汰を戴ける場所にしなければと、気が引き締まった今日でありました。

それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。かくのごとくよくこころえたる人は、まことに百即百生なるべきなり。このうへには、毎月の寄合をいたしても、報恩謝徳のためとこころえなば、これこそ真実の信心を具足せしめたる行者ともなづくべきものなり。

御文章四帖十二通より

なんまんだぶ

お秋廻りと母の痴呆と父の涙の話

今日は、当家竹内家の報恩講でありました。お手次寺の浄善寺様がお秋廻りにきてくださいました。

「お前も絶対に来てくれや」
と父に強く言われていたのもあって、慈海は吉崎別院でのご奉公半休をいただき、午後実家に戻りました。

実家につくと、父と母が喧嘩をしていました。むくれた母は家を飛び出し父はうだうだと文句を言いながら母を探しに出ていきました。

近頃、母は幻聴もあるらしく夜中に「誰かが仏間から歩いてくる」と訴えることがあるようにまでなったそうです。毎日母の様子を見ることはできていませんが、合うたびに「あれ?」と、そのアルツハイマーの痴呆の症状を感じることが多くなってきました。

着実に、母の脳は壊れていっています。刻一刻と母の脳は萎縮し、記憶する機能を失っていっています。

父と母の喧嘩の原因は、今日のお秋廻りでの準備でのことであったようです。母曰く「お父さんなんもしてくれん!なーんもせんと寝てばっかりいる!」とか。父曰く「手伝えば文句を言うし、手伝わんかったらこうや。もうどしていいかわからん…」憔悴しきった表情です。

祖母が往生してから、実家のお仏壇は母が面倒を見ています。難しいことはわかりませんが、仏様をお敬いする気持ちは強く、お仏壇はいつもピカピカにしています。いくら痴呆が進んでも、毎朝お仏壇を掃除し、お仏花の水を替え、御仏飯をお供えし続けているようです。それだけは忘れない。

それはまるで、祖母の姿のようでもあります。

今日のお秋廻り、お勤めが終わったあと役僧さんが「それにしてもお仏壇ピカピカですね」と声をかけてくださいました。たまたまその時母はお茶の用意で席を外していました。父は、その役僧さんの言葉を聞いて、必死に涙をこらえていました。

父の涙の訳はなんだったのでしょうか。

報恩講。
御恩を知らされる会座でありました。

今年も、当家の報恩講が無事勤まりました。
今日この居間の瞬間から、また来年の報恩講の準備が始まることであります。

それは、様々な思い、様々な苦悩、様々な悲しみ寂しさ悔しさ情けなさのなかで、お念仏よろこぶ日々がまたまた始まるということでもありました。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

一時停止無視して本線に突っ込んできた車とぶつかって事故を起こした話(お浄土往く前ってきっとこんな感じなんかなぁ)

交通事故にあいました。

タイトルのとおりですけれども、とりあえず誰も怪我はしていませんし、慈海もピンピンしています。

小雨の降る朝でした。コンビニに買い出しに行こうと車を出して100メートルほど進んだところでした。そこは駅近くで徒歩の人も自転車の人も多い上に、道幅も狭く、さらに交通量も多い通りでした。交差点に差し掛かり、カーブミラーを確認して横道も確認して、人の影も車の影もないのを確認しつつそのまま直進していったところで、左の横道から急に青い車が飛び込んでくるのが見えました。「わーーーー」って叫ぶんだね、ああいうときって。まるで普通。自分でもびっくりするくらい普通に「わーーーー」って叫びながらブレーキを踏み込んだ瞬間目の前が真っ白になりました。きっと青い車の影に気づいてから目の前が真っ白になるまでって、いわゆる「刹那」の時間くらい。ぱちんと指を鳴らすくらいの時間くらい。ほんとに一瞬という感じでした。

人間の感覚って面白いよね。目の前が真っ白になってからまるで時間を巻き戻すように車が衝突した衝撃を体が感じるんですよ。まるで思い出すかのように。昔、彼女が部屋を出ていったあとに誰もいないそのマンションの一室に入って、「あ、そうか、もう居ないんだったな…」っていう思い出をフラッシュバックのように思い出したときのように。まるで、そんな記憶の底のワンシーンが加速度的に再現されながら衝撃を実感してくかのように、慈海の体の認知機能がギュルギュル巻き戻りながら再生されていって、徐々にそれが今現在の出来事って頭では理解しつつ、でもなんかそれでもまだ夢を見てるかのような感じ。まぁ、そんな感じで、「ぶつかった!」という事実を、後追いのように認識していったわけです。

目の前が真っ白になったのは、エアバッグが作動してボンと膨らんだから。頭を打ったとか気絶したとかではなく、視覚的に目の前に「チャンとした(?)」白いものが膨らんだから、目の前が真っ白になったわけでありました。いや、比喩ではなく、ほんとに言葉通りに目の前が真っ白だったわけです。しゅーと音を立てて車の中に立ち込める白い煙がとても臭くて、「あ、爆発するんかな?燃える?俺燃えちゃう?」と頭をよぎりましたけどなんだか現実感がないままなので妙に冷静で、まわりを確認しながら、「携帯と財布、携帯と財布」と飛び散った荷物から携帯と財布を探しつつ、まわりを確認して車の外に出たわけです。

それにしても、なんなんだろうね。なんかずっと俺、相手の方が怪我したんじゃないかとかそういうのが心配で、車の外に出て相手を見たら女性だったもんでなおさら「血でてない?意識ある?」とかそういうの確認してたよね。でも、平気そうだったのでちょっとホッとして「急いでた?」ってのんきに聞いてんの。いや、車爆発するとかさっきお前焦ってたじゃん?てか、まだぶつかって数十秒くらいしかたってないぞ?とか脳内もう一人慈海が一人で慌ててんだけど、でもまぁ、変なもんでとっても冷静な気分。いや、端から見たら結構動転してる感じだったのかもしれないけど、自己認識慈海自身はすごーく冷めた感じで「どこに連絡しなあかんのやろ?あ、警察か?保険屋もか?それと。。。」とかそういうのも脳内更にもう一人慈海は考えてたりするの。なんだよ、脳内に慈海何人いるんだよ。ともかく、脳内慈海たちは理路整然とそれぞれの役割をそれぞれテキパキと連携していっていたようです。

そうそう、すごく親切な人がいてね、きっとその方も車に乗っていて目の前でこの事故を目撃したんだろうけど、車を降りて駆け寄ってくれて「大丈夫ですか?」と声かけてくださったのです。そんで慈海も相手も大丈夫そうなのを確認すると「私が証言しますから。あちらが一時停止無視して突っ込んできたのちゃんと目撃しましたから、証言しますからね!」と名刺までくださった。おかげで「俺は悪くない!あっちが一時停止無視してフンガー!」っていう、なんていうの?正義を声高に主張する脳内慈海が脳内シュプレヒコールを起こさなかったのは、よかったかな。ほっとしました。(あとで電話してお礼言いました。ありがとうございました)

でね、もう疲れたから、長文書くの疲れたからこの辺にしとこうと思うけれども、警察読んだり、事故検分(?)立ち会ったり、保険屋さんと話したり、近所の方に「おさわがせしてすみませんー」って頭下げたりしながら、例の脳内慈海の一人がね、ぶつぶつ言うてるんですよ、脳内壁の隅で。お浄土往く前ってさ、きっとこんな感じで「あっ!」って思ったらお念仏する間も、仏様のこと思うことも、いろんな感謝とか、いろんな後悔とか、いろんな懐かしさとか、いろんな寂しさとか、そういうのを感じることもないままに、気づいたら目の前に蓮の池が広がってるんかもなぁって。

その後、事故処理も終わり、車屋さんに事故車レッカーしてもらって、代車を借りて別院に帰り、何事もなかったようにいつも通りのいち日を終えていったわけですけど、あの事故のあと1時間後にね、祥月命日のご参拝のかたがいらっしゃって、読経しながらさ、さっきの脳内慈海がぼーっとおんなじことをお経様のリズムに合わせて繰り返すんですよ。これがさ、ほんとに最後にお釈迦さまのお説教いただくことになるんかもなぁとか、正座で座るのも最後かもしれんねーって。

「後生の一大事」ということをいつも聞かされてはいるけれども、きっと慈海はその瞬間まで、その一大事を一大事と思うことはないのかもしれないなぁと、また別の脳内慈海が、その脳内慈海にポツリというのですよ。

だからこその、今ここでの、なんまんだぶ なんやろうなぁ。

なんまんだぶ せんとねぇ。

なんまんだぶ

↑ 時々こういう光景を見かけるけど他人事だった。自分が当事者って感覚がなんだかなかったね。

↑ ぶつかったところがベッコリと。もしもう少しスピード出してたらこんなんじゃすまなかったかもね。

↑ 血のように見えるけれどもオイルだと思う。誰も怪我しなくてほんとよかった。

↑ エアバッグ膨らましたった!初体験!エアバックって火薬でふくらませるん?すんごく臭かったし車爆発するんかと思ったけど違ったので良かったよかった。

↑ まだ1年ちょっとしか乗ってなかったのに、ごめんよ…。すごくよく走ってくれて、吉崎と福井の往復とかすごく頑張って運んでくれたのに……。おかげでこの一年沢山仏法聞くためにあちこち足をはこべました。ありがとう。

最後に、みなさま、ほんとシートベルトは大事。シートベルトしてなかったら大怪我してたと思う。ちょっとそこまで行くだけだしーってめんどくさがることあるけど、それだめ。いつ事故るかわからんし、駐車場出る時に事故ることもあるわけですし。ほんと大事。交通ルール守って皆様もご安全に!

なんまんだぶ