今この慈海の手の上に、形見が
御同行である法友のお父様が御往生された。
そのお父様とは直接面識があったわけではないけれども、いろいろと思うところもあったので、通夜式にお参りにうかがった。
会場についてお焼香すると、喪主であるその友人が、ぜひ通夜勤行に出勤してほしいという。先方のご住職様にも恐縮していったん断るのだが、「席を用意しているんです」との声にもったいない申し出と、出勤させていただくことにした。
そして、先ほど、そのお礼ですと荷物が届いた。
その中に、布教用のお念珠が3つ入っていた。使い古された様子が、おそらく、亡くなられたお父様の形見なのであろう。
「形見は受け取るものがいて初めて形見となるのです」
と、お取次ぎで常々慈海はお話ししていることがある。この慈海がお念仏を申すこの「なもあみだぶ」の一声は、如来様のお形見である。それを受け取られた御開山聖人が形見として相続してくださった。蓮如さんがまたそれを形見として相続され、脈々と無数の念仏者の方々が形見として、この慈海の口にまで相続してくださった。
お念珠の色褪せた房に、そのお父様のお念仏がしみ込んでいるように思えた。あぁ、慈海よ聞けよ、聞けよ、聞いた話をまた多くの方と供に聞いて来いよ。
何のご縁か、今この慈海の手の上に、形見がある。この口に形見が聞こえてくださる。
「お取次ぎ」ということに、ここ数日すこし迷いがあった。受け取ったものを、そのまま相続していらっしゃいと、諭されたような気がして、お念珠に手を通し、少しくまたお念仏を申した。
なんまんだぶ