カラスが本堂の入り口に

最近おあさじの後、カラスが本堂の入り口にとまって、何度もお辞儀しているので、
「せっかくならおあさじ中に一緒にお参りしたらいいのに」
と声を掛けたら

「うんこするけどいいか?」
って首をかしげるので

「それはやめてください。掃除が大変」
というと

「ここは”雑行雑修自力のこころ”を捨てるところやなかったんか?」
とさらに首をかしげるので

「ゴメンナサイその通りですいくらでもうんこしてください頑張って掃除します」
と反省したら、

「カカカ」
と笑って飛んでいきました。

(途中から妄想ですし、慈海少し疲れてます。)

なんまんだぶ

動物たちの参拝時間が始まる

屋根裏をのしのしと歩く音を一階からそうっと追いかけていくと、裏庭の軒下からひょっこりとタヌキが顔を出した。

辺りをキョロキョロと確認して、まだちょっと明るいなと、軒下に引き返す。

人間の参拝時間が終わって、動物たちの参拝時間が始まる。

なんまんだぶ

少し耳をすませばそこに海がある

近所のお醤油屋さんにお金を払いに行ったついでに、ふと何となく塩屋海岸まで足をのばした。

脛くらいの小さい波だけど、うねりが寄せて割れて白波となって打ち寄せる景色が、とっても懐かしくて、夕闇が濃くなるまでしばらくその風景に見とれていた。

夕暮れの浜辺に腰かけて、おっさんが一人潮風に吹かれて昔を懐かしむ。うーん、なんと絵にならない光景だろうか。

いつも波の音が聞こえるほどのところに住み込んでいるのに、海岸に出るのは年に1,2回くらいしかない。砂丘を超えて目の前に現れる広大な景色に圧倒されて、「あぁ、もっと頻繁に足を運ぼう」と、海岸に出るたびに思うのだけど、別院に戻るとついつい海鳴りを聞くのみで満足してしまう。

お浄土もこれくらい近いところにあるんかもしれんなぁとか、坊主らしいことが頭に浮かんで海の向こう西の彼方に手が合わさる。

近くにあってこれほど行きやすいところは無いのに、行きやすいほどに行く理由ばかりをこざかしく考えて足が向かない。

そんでも、これほどなく近いからこそ海の音は常に耳に届いていて、少し耳をすませばそこに海があることを知れるというのは、あぁなんともかたじけないことであるのだろうなぁ。

なんまんだぶ

“歓喜踊躍(かんぎゆやく)”ということを、教えられたおあさじ

今日の晨朝勤行はツバメのつがいがお参りに来てくれました。

毎朝お参りに来られている女性の方と、ツバメ二羽と、慈海の声のお勤めでした。

一句ごとに「チーッチチチッ」「チチチチッ」と唱和されて、お御堂内を飛び回ります。

“歓喜踊躍(かんぎゆやく)”ということを、教えられたおあさじでした。にぎやかで楽しいね。

で、お勤め終わって
「出てくださーい。お帰りくださーい。」
と手を振り上げてご案内差し上げるのですが、テンション上がりすぎてるのか、お御堂内をグルグルと飛び回るばかりで、一向にお帰りになる様子がないんですよ。

慈海もそれを追っかけて数分手を振り上げたままお御堂内をウロウロウロウロウロ…

ツバメのつがいはそれを楽しむように天井をバタバタバタタタ…

ウロウロ
バタタタ
お、おかえりくださぁい (;’∀’)ハァハァ
チーチチチッチチチッ (*’▽’)(*’▽’)キャッホーイ

ウロウロ
バタタタ
お、おかえりくださぁい (;’∀’)ハァハァ
チーチチチッチチチッ (*’▽’)(*’▽’)キャッホーイ

慈海、へばって、
「じゃぁ、も、もういいです。お好きなだけお参りされて行かれてください…」
とお御堂を出た途端にツィーっとお御堂から出ていかれました。

遊ばれましたかね?遊んでくれたんかね?

なんまんだぶ

慈海を先導してくれたのは

今日は午前中下山して、実家村の放光寺さんで「蓮如さんのご文章をまなぶ」でした。

今日のご文章は『吉崎建立章』でした。

吉崎に帰る途中、さっき自分が話していた話をカーステレオで流しながら帰りました。春うららかな青空の下、車の中では慈海の大声が響きます。聞いているのも慈海です。自分自身の声を使って聞こえてくるおみのりに、少し泣きました。なんだこの一人上手なおっさんは。

吉崎に到着し、念力門の下で一羽のカラスが出迎えてくれました。「ただいまー」と声をかけると、逃げることもせず、ほんの2メートルくらい先を、慈海を先導するようにひょこひょこと階段を上り念力門をくぐったところでこちらを一度振り向いて飛んでいきました。

蓮如さんは吉崎に入られたとき、どんな思いを胸に抱いてらしたのでしょうか。伝説では白い鹿に誘われて御山の上に登られたと聞きます。御山の上には鹿島明神がいらしてここで法を説けば全国に法が広まるであろうと言われたそうです。そしてその通り、蓮師吉崎滞在のたった数年で日本中にお念仏のみ教えが広まることになっていきました。

今日、慈海を先導してくれたのは黒い衣のカラスでした。お御堂の屋根に留まって、カァカァと鳴いていました。お前はここで法を聞けよと黒い衣の上人が、仰せでいらっしゃるようにも思えました。

なんまんだぶ

地獄に三部経弘めに

日曜ですが今日は吉崎にいます。慌ただしく吉崎でもお晨朝をお勤めしました。たまに晨朝勤行二回するのもなんか慣れました。二回もさせてくださる。ありがたいありがたい。ありがたい×2です。倍ありがたい。有難いが倍あるんだからより一層有難い。

ところで今日は蓮師の月忌です。ということは、来月の今日(5月14日)が蓮如上人祥月御命日です。最近は、5月14日が蓮師の祥月御命日ということが先に立って、自分の誕生日ということを忘れることがおおくなりました。慈海45歳じゃん。りっぱなおっさんじゃん。いいんだろうか?こんなワラビシイ(福井弁:幼い、童らしい、未成熟、青二才、ガキっぽい)まんまで。

先日友人であり先輩である方から電話があって、少し話し込んでたんですが、あちらは少し酔っぱらってらしたのもあってか、「地獄に三部経弘めにいこうぜ☆」って話になってそのためには三部経憶えてないと血の池地獄や針の山ではお経様いちいち出して手にもって読んでいられないよね、という話になりました。いくら読んでも全然頭に入っていきませんけど、読むしかないし書くしかないよなぁ。この憶えの悪い頭とすぐ怠惰に流れる心は、なんとほんとにやっかいやなぁと、我ながら憐れんでいましたけれども、よくよく考えれば、慈海がこの娑婆に人間の姿で生まれたのは、三部経様を読むために生まれてきたんかもなぁと思いいたり、それをスッと憶えてしまってはあんまりにも慈海の人生味気ないわなぁと、憶えの悪いこの頭と怠惰に流れる我が心に対して、かたじけないなという思いました。何言ってるわかからんけれども、わからなくてもいいです。

つまりは、「身口意業もし清浄ならずはまさに知るべしこの人かならず地獄に堕せん」は慈海です。ということです。本人がいちばんよくわかってないけど。

なんまんだぶ

祖母の口から聞いたお念仏とは違うけれども

大量の大根とみずなをいただいた。
キッチンを探すとシーチキンをひと缶みつけた。これもずいぶん前にいただいたものだ。

祖母がよく作ってくれた「菜っぱの炊いたん」には時々シーチキンが入っていた。慈海の大好物でお浄土参りの前に今生最後に食べたい三品のうちのひとつだ。(あとの二品は「茄子の揚げ浸し」と「油揚げの味噌汁」。あ、あと白いご飯も!)

祖母がつくってくれたあの味はもう再現できないけど、なんとか真似てやってみようと、いただいたみずなとシーチキンをフライパンで炊いてみた。お昼に食べるつもり。ちょっと味見したら少し苦かった。祖母のとはなんか違うけれども、すこし思い出す味わい。

慈海が口にするお念仏もそうだわなぁ。

祖母の口から聞いたお念仏とは違うけれども、聞こえてくだる味わいは全く同じ。

なんまんだぶ