しばらくお休みしていました。

色々とバタバタとしていたことから、2ヶ月ほど会の活動をおやすみしていました。

新聞も6月に発行する予定でしたが、発行できないまま時間が経ってしまいました。すみません。
予定では、9月中に第5号を発行予定です。

また、毎月開催していた聞見会念仏会も、7月と8月はお休みしました。
9月は開催予定ですので、日程決まりましたらまたご案内します。

それと、放ったらかしになっているUSTでの放送も、9月からまた再開予定です。
毎日は無理かもしれませんが、できるだけ放送できる日は、朝もしくは夜に放送しますね。

おやすみしている間に、色々と今後の計画など考えなおしたり色んなアイディアがあったりしています。それらもまたココでご紹介していきます。

どうぞお念仏はらいっぱい。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

「後生は蚊になる」

蚊が湧く季節になった。
気がつくと足の指やらさされていて、鬱陶しい思いをする。

先程も、なんだか痒いなと思ったら、あちこちに、ぷくりと蚊のさいた痕。

こんにゃろう、どこにいるんかと見回すと、堂々と腕にとまってきた。

反射的に潰そうと手が動く。
が、思いとどまって挙げた手をそっと降ろす。
ここで潰したら慈海の敗けだ。

以前、口の悪い「念仏やくざ」こと、林遊さんが、こんなことを言っていた。

「お浄土には八功徳水ってのがあるらしいけど、この八功徳水ちゅうのはたぶん酒やろう。
うんまーい酒が湖のようにあるらしいさけ、お浄土いったらたらふく飲むんや。
けど、きっとすぐ還相して、娑婆戻ってこいと戻されるやろうから、そしたら俺は、蚊になって生まれようと思う。
そしたらな、ぷーんと飛んでたらすぐパチンと殺されるやろ。
そしたらまたすぐお浄土戻って八功徳水にありつけるやろ。
だから俺は後生、蚊になろうと思うてるんや。」

慈海の腕にとまっているこの蚊は、きっと還相してきた林遊さんやろう。
まんまと潰されて、お浄土に戻るつもりや。

そうやすやすと、八功徳水にありつかせてたまるか。
ここで潰したら慈海の敗けなのである。

うんまーい酒じゃなくて、慈海の脂ぎったまっずーい血をたらふく飲ませて、悪酔いさせちゃるのだ。

ざまあみやがれ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

「汝としての我の発見」

五年前には想像だにしていなかった今だから、五年後にはどうなってるかなんてわからない。

たとえもし、五分後に必ず死ぬよと言われても、きっとその五秒前まで、自分が本当に死ぬとは思わないだろう。

自分が生まれてきた年月日、場合によっては秒までも、知っている人はいたとしても、自分がこの世に生を受けたその瞬間を知っている人はいるのだろうか。

父母が生まれる前の「私」というのは誰だろうか。今もし記憶が全て消えて無くなって、自分の名前も顔もわからなくなってしまったとしたら、「慈海」は本当に「慈海」と言えるのだろうか。

夏しか知らない虫は、夏を知ることはない。朝しか知らない花は、朝を知らない。

今「慈海」を「慈海」と呼ぶこの「慈海」は、本当に「慈海」を知っていると言えるのだろうか。

どこにもいて、どこにもいないこの我は、誰にも知られず、誰もが私だ。

汝と呼ぶ声がある。

「汝としての我の発見」と聞いた。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ19

変わらない私と言う存在(もの)

3年半ほど前、こんな文章を書いていた。
下記、そのまま転載。

 

坊さんになって10ヶ月。

あっという間に1年がすぎて、あっという間に数年経って、気がつけば惰性で坊さんやってるようになってるのかもしれない。

 

どうして坊さんに成ったのかという理由も忘れて、

分かってるふりがうまくなって、

お話もそれっぽい話をしゃべるのにこなれて、

坊主のコスプレも、坊主のフリも板についてきて…

 

嘘を付くことに慣れて、

自分も他人も欺くことばかり上手になってしまった私は、

いつも振り返ると、

何も変わっていない自分に気づきます。

 

どれだけ過去を悔いても、

どれだけ自分を呪っても、

何も変わって来なかった、私自身。

 

先日取材を受けました。

「念仏に出遇って変わったことは?」

という質問に、

「何も変わっていません」

と答えました。それは、正直な気持ち。

でも、こう付け加えました。

「あえて、変わったところを言うのであれば、何をしても私は変わらないんだな、ということを知らされた、ということでしょうか。」

 

私は、きっと変わらない。

私の根幹は、変わることは無いだろう。

 

それは、だからといって「このままでいい」と逃げることではない。

 

変わらない私と言う存在を、

恐れなく、そのまま観ていくということなのかもしれない。

 

阿弥陀さんは、そのまま来いという。

わたしは、このままではいけないともがく。

もがく私を、また、そのまま来いよと呼ぶ。

私は、もがきながら、なんまんだぶ とつぶやいていくだけ。

 

なんまんだぶ があるところには、そこは、もがくことの、喜びがあるのかもしれない。

 

きっと、私自身は変わらない。もがきながらも、変わらない。

変わらないことを知りながらも、もがいていくしかできない。

だって、生きるってことは、もがくってことだもの。

だから、阿弥陀さんは、なんまんだぶ って呼んでくださっているんだもの。

 

私はこの先、どんな僧になっていくんだろう。

 

もがき、もがき続けながら、もがく自分の姿を、そのままさらけ出していける僧になりたい。もがきながら、お念仏を申し続ける、ただ、ただ、なんまんだぶ と繰り返す、臭くとも、念仏香る僧になっていきたい。

 

そこには、慣れも、フリも、惰性も、存在しない。

 

合掌

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

 

白いお赤飯

白い赤飯越前のこの辺では、お通夜にお参りにいくと「お赤飯」が出る。
お浄土にお生まれになった、仏様に成られた、「本当の誕生日」だからだ。
ただ、ご遺族の心情もあり、真っ赤ではなく色の薄い白っぽいお赤飯だ。

お葬式は浄土真宗ではなくても、宗派とわずお赤飯が出るときがある。
蓮如さんが築かれたこの地の風土が宗派宗門問わず、根付いているからかもしれない。

神さん参って「なんまんだぶ」。
宗派知らず、仏さんはいっしょやろと、また「なんまんだぶ」。

そこに分別顔で、ああだこうだ言うのは大抵坊さんだ。
それをこっそり笑うてまた、村のじい様ばあ様は、なんまんだぶ と呟いてきた。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

大阿呆になる勉強

19時から夜中過ぎまで続く、週に一度の勉強会。

真仏真土文類から、涅槃経をひらいて、講義録を頼りに進めているのだけれども、「釈迦といういたずらものが世に出でて……」の一休禅師の言葉通り、めちゃくちゃである。

そんなめちゃくちゃな世界を、言葉頼りに窺おうとしてるわけだから、一行進むのに一時間、いやもっとかかったりするときもある。とたんに椅子の回りに辞書やらお聖教が散乱し、あっち引いたり、こっち開いたり、あれを読んでは線を引き、これを読んではひっくり返るの連続である。

そして、何を得るかといえば、なにも得ない。
なにも為にも得にもならんことを学ぶ。

阿呆になる勉強である。

最近、慈海はなにか変わったかと聞かれ、
「なにも変わってはいませんし、変わらんことを知るばかりです。でも、少しだけ驚きやすくなりました。」
と答えた。

勉強会の帰りには、いつも「御恩報謝の遊び」をやるのが恒例だ。

玄関先で手を合わせて慈海は言う。
「林遊さんに手を合わせてるんじゃないですよ。林遊さんを包む大菩提心に……」
大抵ここで「アホー!」とスリッパで叩かれて、なんまんだぶ なんまんだぶ またくるよーと、笑いながら玄関を出る。

それもなんだか飽きてきたので、今夜は少し変えてみた。

「あんさん、後生なんともないか。夜明けさせてもろたか。なんまんだぶ、しねの。」

「誰に向かって言うとるんじゃ!」

「今こんなじいさんに、後生の一大事言うてくんなるもん、えんやろ!」

師とは呼ぶが、その実同じお念仏の行者である。
なんて慈海が言うと「お前が言うことや無い」とまたスリッパが飛んでくるけど、得たもの比べるんなら、得たものの多い方が偉いだろうけど、そんな話をしているんじゃなかったから、スリッパくらいいくらでも飛んできていいのである。

この道に入ったとき(まぁ、この道なんてそんな道はないのだけど、言うなればお念仏の話を聞き始めたころ)、おそるおそる見よう見まねのお念仏をしたら、「おお、ここにもお同行がいらっしゃったか!」と言われ、とても嬉しかったのをおぼえている。

この御法義は、頭がいくつあっても足りんくらい難しい。それにかこつけて、難しいのを難しいと言うだけでは、ただのアホである。

いまこの勉強は、無力を掲げた、ただのアホになる勉強じゃぁなかった。

浄土に往生させんとする、まぁまともな頭やったらそんなわけあるかい!と放り出すような、そんな話を聞く、大阿呆になる勉強やった。

なんまんだぶ なんまんだぶ

拠り処にする言葉

仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。

(仏法に深く帰依した人がいいました。「仏法は、若いうちに心がけて聞きなさい。 年を取ると、歩いて法座に行くことも思い通りにならず、法話を聞いていても眠くなってしまうものである。だから、若いうちに心がけて聞きなさい」と。)

<『御一代記聞書』より>

 

先ほどのこと、東京に住む父から、慈海と住む母に電話がかかる。

「声聞きたいって」
と、母から携帯を渡されたので、ふざけて『末代無智章』の御文章を暗唱しようとした。
すると父は、
「ちとまて、ほれなら全部言えるぞ」
と、すらすらと暗唱し、
「なんで俺憶えてるんやろ。やっぱあれやなぁ、子供の頃になんべんも聞いて憶えたもんやからやろうなぁ。」
と、自画自賛するのであった。

憶えが悪うなった、間に合わんなってきたと常に嘆いてばかりいる母も、お勤めの時にご文章拝読すると、手を合わせて頭を垂れ、畳の目に視線を落としたまま、ぶつぶつと一緒になってつぶやいている。
もう何年も前に既にお浄土の住人になられた親戚のおじいさんは、ご文章の言葉をいつでもスラスラと諳んじられたそうだ。

たくさんの世間を渡るための言葉を知って、たくさんの道具としての言葉を使うようにはなったけれども、そのどれもがもいずれ間に合わなくなっていくのだろう。
後生のこと、自分がいく先のことを、しらせてくださる言葉を、知っていると言うのは、なんとも心強いことかもしれない。

目が見えづらくなった時、耳が遠くなった時、どの言葉を拠り処にして、慈海は生きるのだろうか。

なんまんだぶ

 

【聞見会念仏会(もんけんかいねんぶつえ)】2015年6月 第十三回

今月もすっかりご案内を忘れてました。すみません。
第十三回 聞見会念仏会 のお知らせです。

第十三回 聞見会念仏会

日時:2015年6月28日(
時間:17時~18時半ごろまで
会費:不要
場所:慈海坊仏間(福井県坂井市春江町針原20-31

少し遅い時間ですが、いっしょに30分ほどお念仏をして、仏法談義(後生話)に花咲かせましょう。

さて、実は当日、慈海の所属寺で「めぐみ会」の法要というのがありまして、慈海は朝から夕方16時過ぎまでそちらにおります。
このめぐみ会の法要では、ご法話もお聴聞できますので、よろしければ、こちらもご参加ください。

(実は、めぐみ会があるのを忘れていて、念仏会の日程をダブルブッキングしてしまったのです。。)

めぐみ会の日時と場所は下記のとおりです。

放光寺めぐみ会
日時:2015年6月28日(
時間:<朝>10時~12時、<昼>14時~16時

場所:放光寺(福井県坂井市春江町針原22-19


慈海宅のすぐ近くです。

めぐみ会のご法話は、福井の若手布教使の中ではとても注目されている、慈海の法友でもある受恩寺住職の長尾師です。
とてもあたたかいご法話をされますよ。慈海の母もファンです。
聞見会の念仏会時間が短い代わりに、ぜひ一緒にお聴聞ご一緒させていただきましょう!

なお、めぐみ会法要中は、慈海もお参りしているのでお構いができないかもしれません。

めぐみ会が終わりましたら、慈海宅に移動しまして、念仏会、そして法談という流れにしたいと思います。

どうぞいっしょにお念仏しましょう。

なんまんだぶ

【聞見会念仏会(もんけんかいねんぶつえ)】2015年5月 第十二回 @慈海坊仏間

すっかりサイトに案内掲載するのを忘れてました。
第十二回 聞見会念仏会 を、本日(5月23日)13時から、慈海坊で行います。

第十ニ回 聞見会念仏会

日時:2015年5月23日(
時間:13時~17時ごろまで(勉強会含む)
会費:不要
場所:慈海坊仏間(福井県坂井市春江町針原20-31

いっしょに30分ほどお念仏をして、ご法話を聴聞し、仏法談義(後生話)に花咲かせて、少し難しい話をしたりもします。
ご遠慮は入りません。初めての方も大歓迎です。
大したおもてなしは出来ませんが、是非お誘い合わせの上お越しくださいませ。

いっしょにお念仏しましょう。

なんまんだぶ