2017年夏。近況報告的なお知らせです。

活動しているのかしていないのか、代表の慈海さえもよく分からなくなっているお念仏の会「聞見会(もんけんかい)」ですが、こっそり整理をすすめています。

整理と言っても、店じまいではなくむしろ、よりフットワーク軽く、思ったことやろうと思ったことを、労力を使わずにやっていけるための、いわばダイエット的なそんな感じです。

(いやその前にお前がダイエットしろ的なツッコミ禁止)

その一環として、管理が煩雑なうえに今後あんまりインプレッション伸びないだろうなぁと考え、聞見会および「仏教どうでしょう?」のFBページを休止とすることにしました。

だって、アナウンス的なこと、FB上では慈海個人のこのアカウントで発言すれば事足りるもん。あはは。。。

(いやそれはお前がちゃんと運営していないからだろ的なツッコミ禁止)

で、前からクライとかヨクワカラナイとかさんざんないわれようだった聞見会のロゴデザインを変えました。そして!なんと!より読みづらくしちゃいました!そのうえ!あんまり明るい雰囲気になってない!さすが慈海!テキトー
(けど、本人は気に入ってるからこれでいいのです。意見は三案出してからどうぞ。)
(※サイト等への新ロゴ切り替えは、テキトーに気が向いた時に切り替えていきます。)

で、出す出す詐欺をしていた「聞見会新聞」ですが、やっと、やっと新しいのを作りました。作ったといってもとってもシンプルになってます。とってもとってもシンプルです。ワード的な感じです。ですけれども、掲載しているご法話は小林顕英先生書き下ろしです!!きゃー!すっげー!お念仏でまくりだね!新しい聞見会新聞は、八月に入ったら送付およびネット上にもアップ予定です。

で、聞見会サイトの方ですが、リニューアルというか、サーバーの引っ越しを予定しています。いちおー10月までには移転完了する予定ですが、とってもとってもありがたいお方がぜんぶ作業を請け負ってくださってるので、やるやる詐欺の慈海と違って安心ですね!

ま、ほかにもいろいろあるかもですが、とりあえず、聞見会の告知はサイトの方をぼちぼち更新していこうと思います。いまんところはまだずっと更新してないままですけど。げふんげふん。

では、みなさま、お念仏は、いいぞぉ。

なんまんだぶ

手紙を送る。手紙をもらう。

たまに母に手紙を送る。

離れたところで暮らしているとはいえ、週に一度は父母と食事をしたりしてちょくちょくと顔を合わせている。だから、あらたまって手紙を書くのも気恥ずかしいのだが、痴呆が進む母にとって息子からの手紙はいい刺激にもなるようだ。むず痒い照れはあるものの、そんな感情を押しのけてたまに手紙を書いている。

用事で父に電話をすると「今泣いて読んでたわ」と笑っていた。早速返事を書いているそうである。

色々と出来ないことも増え、忘れることも多くなり、今後自分がどうなってしまうのか、自分が自分でなくなるような、おそらくそんな恐怖と常に戦っている母ではあるが、筆を持つと「自信」を取り戻す。

これまでと同じように返事を書いたことはおろか、息子から手紙が届いたことさえも明日朝には忘れてしまうかもしれないが、何か嬉しいことがあった感情だけは心に残っていて、機嫌がよくなるようである。そして、たまに引き出しから忘れてしまっていたその手紙を見つけ、「あらこんなのもろてたんやわぁ!」とまた新鮮な気持ちで読んで涙ぐんでくださるのであろう。

「忘れる」ということは、ときに幸せなことでもあるのかもしれない。

会えばいつも同じ話を繰り返し、「あんたここだけの話やけど」を何十回も繰り返してはまた同じ話が始まる。一緒に生活している父にとってはまるで苦行のようであるそうだが(笑)、文句も愚痴だけでなく、喜びまでも、何度も何度も新鮮に味わっているのかもしれない。

母の息子であるから、慈海もいずれ同じにように痴呆になるのかもしれない。
今、母が見せてくださっているように、なんども同じことに腹を立て、なんども同じことに悲しみ、なんども同じことに喜ぶようになるのであろうか。

慈海には手紙を書いてくれるような子はその時にはいないであろうが、今とりかえしとりかえし戴いているこの蓮如さんからのたくさんのお手紙(文章様)に、なんども同じように頭が下がり、なんども同じように喜べる、そんな爺になりたいものだ。

自分が何者かも忘れ、どこにいてどこに向かっているのかさえもまたわからなくなったその時に、「摂取不捨」のすくいを新鮮に驚けるのは、すこし楽しみかもしれない。

そのときに、慈海の口からお念仏が溢れてくれたら。

なんまんだぶ

残響

久々に晴天が続き、風雪厳しいこの吉崎にも春の兆しを感じ始めた。
冬の間は特にお参りの方の足音も聞こえず、いつもにもまして寂びさびとした境内であったが、ふらりと訪れてはお念仏を申されて帰って行かれる方の姿もぽつぽつと見かけるようになった。早朝には鳥たちが「アーサムイサムイ!スヲツクロウ!スヲツクロウ!」と騒がしくなり、床を掃除すると風で飛ばされてきた花粉が雑巾を黄色く染めるようになってきた。

今日から三月である。
春の兆しを感じ始めたとはいえ今朝も霜が降った。お御堂に入るとひんやりと冷えた空気が鼻の奥をくすぐる。明かりを灯し、香を焚き、お仏飯をお供えし、いつもと同じく晨朝勤行(おあさじ、朝の勤行のこと)をお勤めする。たまにお参りの方もいらっしゃることがあるがほとんど一人きりのおあさじである。昔は毎朝通われた方もいらっしゃったそうであるが、そういった方々も高齢になり、また先に往生されていかれたそうだ。しかし誰も来ないからといって、この別院で晨朝勤行をしないわけにはいかない。

まだまだへたくそだけれどもせめて声だけでも大きくと、正信偈を誦しながら阿弥陀様のお顔を見上げるとその表情が明るい。この時間でも日が本堂に差し込むようになってきたからか、お優しくて柔らかい如来様のその表情にみとれながらひとり声を出し続ける。

二百年以上前から残る総欅(ケヤキ)の伽藍に、自分の声が反響して心地いい。大きなお御堂でのおあさじは、どんな日でも本当に気持ちいいものだ。ふと、昨日お参りに来られたご夫婦と、この本堂で会話したときの話を思い出す。

そのご夫婦は、以前にもご参拝にこられたことがありその時も慈海とお話をしていた。愛想よく始終嬉しそうに笑われる旦那様と、静かに優しくたたずまれる奥様は、仏様のお話をとても喜ばれ、お二人ともとても聞き上手であった。ついつい話も長くなり、そろそろお帰りになられるとのことで、最後にご一緒にと、仏様の方に向かって手を合わせると、不意に旦那様が「なんか聞こえんか?」と奥様に尋ねられた。「なんかお念仏聞こえる。聞こえんか?」三人で息をひそめ、阿弥陀様の方に向かって耳を澄ませる。

風の音であろうか、それともストーブの音であろうか、かすかに高くすんだ声のお念仏のような声が聞こえた気がした。「この本堂はもう二百年以上お念仏がしみ込ませ続けていますから、もしかすると過去無数の方々のお念仏が、柱やら壁やら天井やらからしみだしてるのかもしれないですね。」と慈海が言うと、「あははは!それは間違いない。間違いない!そうかもしれん!」と旦那様たいそう喜ばれた。

無数の方々が、それぞれの人生のなか、それぞれの思いを抱え、それぞれの口から、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ ……とこの吉崎でお念仏をされてきた。蓮如さんの当時からしみこみ続けたその響きの記憶と、今私の口から聞こえるお念仏の声とが、共鳴するかのようである。そういう意味で言えば、「聖地」という言い方はあまり当流では言わないかもしれないが、やはりまさしくここはお念仏の聖地であったか。少なくとも慈海にとってここは、お念仏の聖地であり、僧侶としての原点の地でもある。

軒を連ねるお隣の大谷派さまの別院では、毎年蓮如上人御忌法要にあわせ、京都のお東のご本山さまから吉崎まで、蓮如上人の御影を御輿に乗せて往復歩いてお運びされている(蓮如上人御影道中)。毎年、この道中を往復全て歩かれていらっしゃるという方がある。中には八十を過ぎてらっしゃる方もいらっしゃるそうだ。六年前、たった片道だけ歩いただけで自身の誇りに思ってしまっていた時もあった。六年前の三月一日、京都のご本山(西本願寺)を出発して、この吉崎に向かった。七日間の旅路であった。片道であるから240キロほどであったか、もっと短い距離だったかもしれない。しかし、毎年八十過ぎて往復500キロほどを踏破されるうえに、十日間の法要も泊りがけでお勤めされるような、そんなバケモノのような方の話を聞くと、なんだか自分が恥ずかしくなる。

数年前、まだ吉崎に住み込みでご奉公することになるなんて夢にも思っていなかったとき、夜中にふと蓮如さんに会いたくなり、実家からこの吉崎別院まで車を走らせたことがあった。境内の前、石階段の下から念力門を見上げると、その門の屋根の向こうに見事な満月が見えた。つい時を忘れ、その念力門と満月の景色をしばらく眺めた。自分自身が慈海なのか、念力門なのか、はたまた月であるのか、眺めている方であるのか眺められている方であるのか、仰いでいる方なのか仰がれている方であるのか、分からなくなるような、不思議なひと時であった。

数限りない方が、お念仏とともにくぐられ、お念仏喜ぶ方々の力によってこの地に運ばれ、今日もまた様々な方のお念仏を聞きながら、念力門はこの地にたたずんでいる。

ああ、いずれこの慈海の口から聞こえるお念仏も、この地の残響となるのであろうか。
なんともったいないことであろうか。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

春の兆し

早朝の鳥の声がまた賑やかになってきました。夜中にネコの唸り声を聞いたり、日中から本堂脇にイタチを見かけたり、夜にはタヌキも喧嘩しながら通り過ぎて行ったり、動物たちもにわかに活気づいてきました。もうすぐ春だなぁ。梅の香りでも探しに行きたくなります。今日はいい天気。

歳を重ねるごとに、冬の寒さのなかで春の兆しに気づくようになってきたのは、季節はめぐることを知ったからでしょうか。

先日、父が急に
「おい、お念仏があってよかったな!」
と声を上げました。
何事かと思ったら、死ぬということがわからなかったけれども、行くところがあるということやなぁと。それはとても幸せなことやなぁと、しみじみ語り始めました。

ありがたいことです。
なんまんだぶ

コンビニ坊主

デイサービスでのご法話お取次ぎ。

雪のため早めに出たら早くつきすぎてしまったので、時間つぶしのため近くのコンビニへ入った。

友人が店長をやっているコンビニで、タイミングよくその友人がカウンターの中にいた。

「おー久し振りだねー!元気だった?」
の挨拶から始まる悪態の応酬。
「この生臭ぼうすめ!」的なイジリを華麗に受け流し時には逆襲しながら、しばし雑談。

「じゃぁそろそろ行くわー」と出たところで「ちょっとちょっと」と呼び戻される。

「彼女がさこの前もらった”大丈夫”をお守りにもっててさ。話してやってよ!」

店長をやっているその友人には、以前「書いてほしい」と言われて『大丈夫』と筆で書いた色紙をプレゼントしていた。

たまたまその時コンビニで同じシフトにはいっていたアルバイトの女性が、同じく『大丈夫』と刺繍されたお守りを身につけていたらしい。

「ぜひその”大丈夫”の意味聞かせてあげてよ」

とのことなので、カウンター越しに少しだけお話をした。

「ね?仏教って面白いでしょ?」

そう語る慈海の言葉に、そのアルバイトの方は、ぽかんとした顔で「へえーーーーーー」と応えられた。

少し”コンビニ坊主”だった頃を思い出しながら、ああ、でも今も同じかもなと嬉しくなって、吹雪の中、デイサービスのご法話に向かった。

いつも思うことだけれども、慈海は自分自身には全く自信というものが持てない。

仏教の話を聴き始めたのも三十半ばからだし、教学といったものも専門的なところでしっかり学んだわけでもない。本を沢山読んでいるわけでもないし、勉強もサボってばかりだ。もともと憶えが悪く、ちょっと読んだり聴いたりしても聴いたことさえもすぐに忘れてしまう。じっくり何かに取り組む性分でもないし、サボり症で、志してもすぐに挫折してきてきた。何かを成し遂げた、大成した、という経験が無いのだ。大学も中退し、仕事も中途半端で都落ちして、僧侶の格好に、そういったどうしようもしなかった自分自身から逃げながら生きている。

慈海は、自分自身にはかけらほどの自信をもてるはずがないのだ。

そんな慈海が語れる話というのは、聞いてきた仏さまの話しかなかった。こんなどうしょうもない慈海が、慈海と名乗るまでにさせしめた話だ。

慈海が、この身で聞いた話だけは、自信を持って話せる。
なぜなら、それは慈海の話ではないからだ。

吹雪の中、吉崎にお参りに来られる方があった。
たまたま雪で濡れた縁側の通路の拭き掃除をしていたので、少し話しかけると、遠い都市圏からいらっしゃったという。

吉崎は観光地でもある。隣町は温泉街だ。
つい、「旅行のついでにいらっしゃったんですか?」と聞くと、「いえ吉崎に来たくて朝電車に乗ったんです」とおっしゃる。
この、吉崎にお参りに来たくて、日帰りのつもりでいらっしゃったという。

「もしお時間があるのでしたら、すこし吉崎と蓮如さんのお話をしましょうか?」と尋ねると、嬉しそうに座ってくださった。

三十分ほどであろうか。ストーブをつけたとはいえ、寒い本堂の中、たくさんの話をした。吉崎と蓮如さんの話。蓮如さんが口やかましくおっしゃった『後生の一大事』の話。すべて、慈海が聞いた話の受け売りだ。しかし、慈海が驚いた話でもある。慈海がよろこんだ話でもある。それは、過去無数の方々が、同じように驚き、喜ばれた話であろう。この慈海を仏にするという話であった。

「こんなご縁にあえるなんて」
とよろこばれて、何度もお互いに合掌しながらお別れした。

こんな出会いが、昨年の四月、この吉崎、蓮如さんのもとに住み込みでご奉仕するようになってから、ある意味「逃げついて」から、幾度と無くあった。

まちなかのコンビニであろうとも、僻地と言われるこの吉崎であろうとも、同じ場所であったかもしれない。同じく、やはり、コンビニ坊主であるのだろうかと、デイサービスの施設でお取り次ぎしながら、ゆっくり、自分の中に聞こえてくださったこれまでの言葉を解き、そしてまた紡いで、始終手を合わせてうなづきながら聞いてくださる人生の大先輩方の前で、この「おみのり(御法り)」を、伴にお聴聞した。

お念仏を勧められるこの「教え」というのは、ああ、ほんとうに、面白いぞ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

御正忌報恩講がくると、新しい年が始まったなぁという気持ちになります。

1月14日、毎年この日は三国町にある憶念寺さまで「御正忌報恩講」が勤修される。四年前から、こちらでのご法話お取り次ぎをお任せくださっている。

「御正忌報恩講」というのは、1月16日にご往生されたご開山親鸞聖人のご命日法要のことで、ご本山の本願寺(西本願寺)では毎年1月8日から16日まで、この法要がお勤まりになっている。

いわば、キリスト教様のイベントで言えば、イエス・キリストさまの誕生をお祝いされるクリスマスのような行事といえば、わかりやすいかもしれない。

ご命日を誕生日と同じというと、おかしな感じがするかもしれないけれども、日本では誕生日よりも、命日を大切にする事のほうが多いのではないだろうか。亡くなった方の誕生日を祝う行事というのは少ないけれども、亡くなった日つまり命日に法要などを行うのは、日本文化が仏教文化と密接であるからであろうか。どうだろうか。

まぁ、文化的にどうかは知らないけれども、少なくとも、私らお念仏の同行(どうぎょう)は、死を無に帰する出来事とは捉えない。浄土に生まれる日と聞かされている。つまり、真実に生まれていく本当の誕生日が、命日ということか。

であるから、ご開山聖人がお浄土にお生まれになっていかれたこのご命日を盛大にお祝いし、ご開山聖人が示してくださった浄土往生の道、生死を出ずる道の教えのご恩を改めて報(しら)され、また、その御恩にお礼を告げるのが、この「報恩講」という法要であった。

慈海にとっては、ここ数年は、毎年今日が、ご法座でのお取り次ぎ始めとなっている。今日のご法座が済むと、ああ新しい年が始まったなぁという実感がやっと湧いてくる。

いつもなら、この後15・16日とご本山にお参りに行くのであるが、今年は吉崎別院で16日にこの御正忌報恩講がお勤まりになるので、残念だけれども、ご本山へ上がるのはご無礼することになる。

一年で最も寒い時期である。
今朝のお晨朝勤行は特に冷えた。風もおそろしくお御堂を揺らすなかであったけれども、この寒さの中であっても、口に世事を交えずただ仏恩の深きことをのみおっしゃってられたというご開山聖人を思うと、また背筋が伸びる思いであった。もったいないことやなぁ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

聞くこと、語ること

夕方、お御堂の掃除をしているとふらりと本堂に入ってこられた方がいらっしゃった。慈海より少し年上くらいだろうか。

じっと仏様を見上げたあと、頭を垂れ、熱心に手を合わせてらした。

隅の方でそうっと掃除を続けていたけれども、なんとなく気になって、
「お経一巻聞いて行かれますか?」
と声をかけると、
「はい」
との返事。聞けばご家族を数ヶ月前に亡くされたとのこと。

一旦片付けた香炉をもう一回出して、作務衣から法衣に着替え、阿弥陀経様をいただく。

読経中時折後ろから小さくお念仏が聞こえる。

読経後、
「せっかくですから、少しお話させてください」
と、阿弥陀経様のお話をすると、何度もご本尊を見上げながら静かに聞いてらした。

「なんだかほっとしました。」
と初めて笑顔を見せて、何度も何度も頭を下げながら帰って行かれた。

傾聴という言葉が昨今もてはやされるが、それは受けきれる覚悟のある方にしかできないことではないだろうか。

慈海には受けきれる覚悟も、聴ききる勇気もないけれども、慈海が聞いてきた「正しく受けきれる方」つまり如来様の話ならできる。一緒に聞くことなら、できる。それしかできないのだけれども。

慈海が一方的に話すばかりで、多くを語る方ではなかったけれど、きっとたくさん如来様に話していかれただろうな。

お寺があるって、いいよね。

なんまんだぶ

「さみしさ」を思い出す

涼しくなってきたとはいえ、まだ日中は冷えたむぎ茶が欲しくなる。

日に日に長くなる秋の夜、明日の分のむぎ茶を作っておこうと、やかんに水を満たし、火にかける。虫の音を聞きながら、ぼんやりとそのやかんを眺めつつ、お湯が沸くのを待つ。

しばらくして、やかんがクツクツと音を立て始め、ふと「さみしさ」を思い出す。

そうか、慈海も独りであったな。

母の「モノ忘れ」が、少しずつ、ゆっくりと、ゆっくりと、進行しているらしい。

「モノ忘れ」の進行を遅らせる薬は飲んでいるらしいけれども、日を重ねるごとに「モノ忘れ」が顕著になっているようだ。薬の効果のおかげでそれでも進行が遅くなってはいるのか、それとも期待しているほどの効果が出ていないのか。

父から電話がある度に、いつも父は小声で慈海に訴える。

「おい、そうとうひどいぞ。」

こんなことがあった、あんなことがあったと矢継ぎ早に最近の母の「モノ忘れ」の様子を訴える。父は父で、そんな母との生活に、かなり参っているのかもしれない。慈海はウンウンとただ聞くだけである。

「モノ忘れ」を母本人も自覚するときがあると言う。そんな時は、ひどく落ち込むのだそうだ。

「なんで私こんなんなってもたんやろ……」

自分で自分を信じられない情けなさに、苛立って自分の腕に噛みついたり、物を投げつけたりして、ポツリとそう言うのだそうだ。

「もつけのうてなぁ(福井弁:かわいそうでなぁ)」

電話越しでも、父が泣いているのがわかる。

自分が壊れていく感覚なのだろうか。それは、世界が崩壊していくことと同義だ。いや、もしくは、自分だけが世界からこぼれ落ちていくような感覚なのかもしれない。それは絶対的な「さみしさ」であろう。

ふとしたきっかけで、その「さみしさ」を母は思い出すのだ。

どれ程の恐怖であろうか。

しかしその「さみしさ」のために、泣いてくれる人がいる。父がまさか、母のために涙を浮かべることがあるなんて。

いずれ、慈海の顔も忘れてしまう時が来るのかもしれない。父のコトさえも忘れてしまう時が来るのかもしれない。

そうなったとき、慈海は何と母を見ることができるのであろうか。何と言葉を発するのであろうか。

「あんた!寝たきりになったとき、誰も面倒見てくれんかったらどうしよう。」

「だから、そうならんように薬もらってきたんやろ」

「違う。あんたのコトや。」

アルツハイマーの診断を受け、人生で最も恐怖を感じていたであろうその時の、母の言葉であった。

なんまんだぶ

蚊を潰す。

涼しくなってきたからか、蚊が多い。
ぶんぶぶんぶとやかましい。

少しくらいなら、かゆいのもうっとうしいのも我慢して、殺すもんかと無視を決め込むけれども、あんまり多いので、潰す。

潰すならまだしも、殺虫剤を買ってきて、シュッとひと吹き。
今は、たった一回ほんの少し指を動かしてシュッとするだけで、12時間蚊を落とすというすごいのが有る。

しばらくすると、ぶんぶぶんぶとうるさかった音が、やたら高い音に変わり、狂ったように天井に飛んで行ったり床に急降下したり、激しく飛び回って、姿を隠そうともせず、そのうち床でくるくる回り始める。

じっと観察していると、なかなか死に切れないのか、足をばたつかせ、羽を激しく震わせて、なんとも酷い。

酷いのを見るのも、酷い原因となった自分を知るのも嫌なので、それをまた潰す。潰したあとの死骸は、ティッシュで拭きとってポイッとゴミ箱に入れる。そしてなかったことになる。

これと同じことを、心のなかで人にもしている慈海がいるのだ。

無関心ということは、平穏であるということである。
興味があると、平穏ではいられない。

菩薩というのは、好奇心の塊なのかも聞いたこともあったけど、興味を持ち続けるということは、よほどしんどいことだろう。

十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる

なんまんだぶ