ウスの役はやっぱり慈海ですか?
赤手ガニをちらほらと見かける時期になってきました。
そして、最近タヌキの気配がないなぁと思っていたら、職員さんが先日サルっぽい気配があったとのこと。もしかすると本堂の屋根裏にサルが出入りしているのかもしれません。
これは、もしや、あの伝説の「さるカニ合戦」開戦の兆し!?
ウスの役はやっぱり慈海ですか?そうですか。
ちなみに、吉崎の赤手ガニは木に登ります。
…ん?だめじゃん!合戦始まらないじゃん!
なんまんだぶ
赤手ガニをちらほらと見かける時期になってきました。
そして、最近タヌキの気配がないなぁと思っていたら、職員さんが先日サルっぽい気配があったとのこと。もしかすると本堂の屋根裏にサルが出入りしているのかもしれません。
これは、もしや、あの伝説の「さるカニ合戦」開戦の兆し!?
ウスの役はやっぱり慈海ですか?そうですか。
ちなみに、吉崎の赤手ガニは木に登ります。
…ん?だめじゃん!合戦始まらないじゃん!
なんまんだぶ
ツツジの時期が終わったので、念力門前の松とツツジを剪定しました。
ここで作業しているといろんな方から声をかけられます。
まだ途中だけどそろそろ今日は終いにしようかと片付けていたら、「まだお参りできますか?」と、見たところ齢九十を越えていそうなご夫婦に声をかけられました。
「どうぞどうぞ。まだ開けておりますよ。ごゆっくりお参りください。」とお返事すると、旦那様のほうは杖を付きながら階段を一段一段足が地についているのを確認するようにゆっくりゆっくりと登って行かれました。
お帰りのとき、もしかすると手を必要とされるかなと思い、もう少し作業を続けながら戻られるのを待っていました。
三十分ほどするとカツン…カツン…と杖の音を鳴らしながらご夫婦が戻られてきました。
「お昼に目が覚めて、ちょっと出掛けようかと来てみたんです。」静かにそうおっしゃって、じっと本堂の方を眺めていらっしゃいます。
「ゆっくりあみださまとお話しできましたか?」
「ええ。また来れるかわかりませんしねぇ」
ありがとうございましたと去っていかれたご夫婦に手を合わせて見送り、片付けを再開しながら、なんだか今、夢を見ているような気持ちになったので、「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ」と少し大きく声を出すと、御山の方からウグイスが盛んに鳴き始めました。
やっぱり、もしかすると、ほんとうに、夢を見ているのかもしれません。
なんまんだぶ
なかなかバタバタ落ち着かず、落ち着いた日常を過ごせずにいますけれども、忙しいのではなくて、なんとなく気ぜわしいのでした。
それでも、晨朝勤行のときはゆっくり仏様の前に座っていられるので、「日常の勤行」ということを定めてくださった蓮如上人には、かたじけないばかりなのです。
電話越しの晨朝勤行というのもなんとなく慣れてきて、まるでそこにいらっしゃるかのような気持ちで、以前実際にそこにいらっしゃったときと同じように、お勤めをしています。
電話の向こうのその方も、電話越しに聞こえるお勤めの声はもちろんのこと、かすかに聞こえる足音や、衣擦れの音からも、私の様子が手に取るようにわかりますとのことで、「慈海はこれまで通り気を抜くことできませんね」と、笑いあったことでありました。
先日、電話越しにお若い声がかすかに聞こえました。お勤めの後電話の向こうにそのことをたずねると、小学校低学年のお孫さんが泊まりに来ていたそうです。「おばあちゃんなにしてるんだろ?」と、一緒にお仏壇の前に座り、仏様に手を合わせ、おばあちゃんと一緒に、携帯越しの慈海の声を聞きながら、お勤めをされていらっしゃったとのことでありました。
電話越しに声をかけると、恥ずかしそうに挨拶をしてくれるかわいい声と、嬉しそうにお孫さんを紹介してくださるおばさんの声が、朝からお御堂の空気を柔らかくしてくれました。
お勤めが終わればまた気ぜわしい日常が始まるのです。あれやこれやあれやこれやとばたばたとしながら、食うて寝て食うて寝てを繰り返すばかりであるけれども、それもまた、手を合わせる間のモノゴトなのでありました。
なんまんだぶ
吉崎は、海に面した山の湖畔なので、とにかく自然が豊かで、たくさんの生き物が暮らしています。
今日のような気持ちよく晴れた朝には、鳥たちがとても賑やかで、境内の木々の枝を揺らしたり、追いかけっこしたり、時には喧嘩をしたりしながら、様々な鳴き声を聞かせてくれます。
慈海は鳥の種類に詳しくないので、「このさえずりは何の鳥だろう?」「あの枝にとまっている綺麗な鳥はなんて言うんだろう?」と思いながら、このサイトを開いて調べてみるのですけど、まぁ、こういうの調べるの苦手なので、結局いつもわかんないんですよね。
https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/
名前が分かったら、鳴き声も違って聞こえて、より一層楽しく聞こえるのかもなぁなんて思いますが、名前も知らない鳥たちと、一緒に晨朝勤行をお勤めしているのもうれしい朝の楽しみでもあります。
なんまんだぶ
午前中、急きょ代理で依頼いただいた施設でのご法話にうかがっていました。
お取次ぎが終わり、ご文章を拝読して会場を出る際に、合掌礼拝した際、頭を下げている慈海に向かって涙声で
「ごえんさんありがとうございます ありがとうございます なんまんだぶ ごえんさんありがとう ありがとう…」
とおっしゃるのが聞こえてきました。
慈海の目頭にも熱いものがこみ上げてきて、頭を上げることができず、礼拝したまま震え声でこちらも「ありがとうございます ありがとうございます なんまんだぶ なんまんだぶ ありがとうございます…」と繰り返していました。
職員さん方もいらっしゃるし、なんだか恥ずかしくなって、そそくさとその場を立ち去ろうとすると、施設から出るとき、聞いてらした方々が皆さんこちらを向いて手を合わせていらっしゃいます。
深々と再び礼拝して後ずさるようにその場を離れました。
「人に仏法のことを申してよろこばれば、われはそのよろこぶ人よりもなほたふとく思ふべきなり。仏智をつたへまうすによりて、かやうに存ぜられ候ふことと思ひて、仏智の御方をありがたく存ぜらるべしとの義に候ふ。」(蓮如上人御一代記聞書 )http://labo.wikidharma.org/…/%E8%93%AE%E5%A6%82%E4%B8%8A%E4…
との蓮如上人の仰せが帰りの車の中で何度も思い起こされて、なおさらかたじけない気持ちになりました。
なんまんだぶ
今日いらしたその方は、部屋に入りその塑像を見つけられると、静かに前まで進まれて、ゆっくりと正座されると手を合わされた。
「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ …」
手にされているお念珠が、小さなお念仏の声とともにゆっくりと揺れる。
案内していた慈海は、その光景に息をするのを忘れる。気が付けば慈海自身も膝が折れ、同じく背を正して座り、手が合わさっていた。
「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ …」
これまでも幾人かの方々をその塑像の前までご案内した。そしてどのかたも、その朽ちかけた塑像を見下ろして、「あらぁ」と驚きの声を上げ、眉をひそめ、「もったいないねぇ」「なんとかせんとねぇ」と言いながら通り過ぎて行った。
それは、慈海も同じであった。
いままで、このお姿に手を合わせようとしたことがあっただろうか。ただ単に、モノとしてしか見えていなかったのではないか。
「そうですかぁ……。釈尊のおっしゃることは、ほんとうに真でありましたなぁ」
そうおっしゃいながら、ゆっくりと立ち上がられるお姿は、まるでそこに蓮如さんがいらっしゃるかのようにも見え、なんともかたじけない思いがした。
なんまんだぶ
母は何度も何度も予定を確認する。
机の上に置いたカレンダーの書き込みを見て、手帳を出して、同じことを繰り返し繰り返し何度も何度も確認し、何度も何度も何度も何度も同じことを父に尋ね続ける。
安心できないのだろう。
確認しても確認したことを忘れてしまい、メモをしてもメモをしたことを忘れてしまい、父に尋ねて理解したこともまた聞いたそばから忘れていく。忘れたことを忘れてしまうので、毎回毎回確認することも、メモをすることも、尋ねることも、その時その時が「初めて」のことなのだ。
疑問に思ったことを何度も同じように疑問に思い、慌てたことも何度も同じように慌てて、不安になったことも何度も同じように不安に感じ、腹を立てたことも、嬉しかったことも、笑ったことも、全部が毎回初めてのことように繰り返す。
「そういえばそんな話したっけ?」とか「そういえば聞いてたわね」ということも無い。完全にその度、その度に忘れていく。
忘れるということは、どういうことなんだろうと、繰り返し繰り返し予定を確認する様子を、もはや機械的に同じように返事をしつつ何気なく観察していると、ふいに母は”どこに”居るのだろうかという気持ちになった。
それは、裏返せば、この私が”どこに”居るのだろうかという恐ろしい不安でもある。
ふとそのことを思い出し、先日お取次ぎした法話で「こちらが忘れても、忘れてくださらん方がいらっしゃった」と、以前聞かされた話を取り次いだ。
そのことさえも、また私自身も忘れてしまうのだろうけど、忘れていない間は、心強いことでもあるし、忘れてしまってもまたそう聞かされたなら、その聞かされた瞬間だけでも、安心できるのかもしれない。不安は消えないけれども、その不安は「安心」の座上にある。
なんまんだぶ
どうも、慈海です。お久しぶりです(‘ω’)ノ
突然ですけどYoutube「仏教どうでしょう?」はチャンネル名を変えることにしました。新しいチャンネル名はまだ決めていません。
とりあえず、それまでの間は慈海が運営している「聞見会(もんけんかい)」の名前にしています。
そして、過去の動画も一部を除き非公開にしています。まぁ、なんというか、気まぐれでごめんなさい。
放送したりしなかったり、新しいシリーズを始めてみたりやっぱり途中で投げ出したりしていますけど、ずっと放送はしたいと思っていました。
けど、なんとなく初めてなんとなく中断したまんまの動画をアップしてばかりいたので、「また気まぐれで動画アップしてもなぁ(‘Д’)」とキッカケを見失って1年以上も経っていましたね。
で、「どれか過去動画の視聴数が四桁超えたらそれに関する動画をまたやろうかなぁ」とぼんやりと思っていました。あぁ、なんとやる気のない慈海でしょうか。ええ、それが慈海というやつです。すみません。
そしたら、なんか御文章の動画が気づいたら四桁超えてるので、あれまぁこれは困ったことだと、変なやる気がわいてきてしまったという今日この頃です。
ユーチューバーとか言う言葉もすでに死語っぽく感じ始めた昨今、こんなおっさんの顔をさらけ出して何を放送するんやろうと思っていますけど、なんですなぁ、やっぱり「御文章」ってすごいですよ。この「御文章」のすごさをですねやっぱりぜひ共有したいなぁなんて思っているわけですよ。こころのなかのJさんが「ユーヤッチャイナヨ」ってささやくんですよ。ええ、もちろんJさんというのはJIKAIさんのことですよ?
こんなユルイ感じでいろいろ書いていますけど、ガッツリ「御文章」についての動画をやろうかなって思っているわけです。
そういうことで、ガッツリ「御文章」の動画をちゃんと作ってみようかと思っています。
ということで、「仏教どうでしょう?」は近日名前も変えてまた放送を再開しようと思います。しないかもしれませんけど。いや、しますって。はい。
そうそう、ところで、このFBページもですね、あわせて名前とかいろいろ変えると思います。っていうか、このFBページって必要?いらない?ぶっちゃけあんまり見る人いないよね?Twitterでいいんじゃね?とか思ってるんですけど、まぁ存続も含めて何かご意見ありましたら是非是非コメント欄におねがいします。
なんまんだぶ
携帯電話をスピーカーフォンにしての晨朝勤行。
思っていたよりも、先方の方によく声が聞こえていた(むしろ聞こえすぎたくらい)様子で、こちらもまるで、今までと同じようにその方がお御堂で一緒にお勤めをされていらっしゃるような気持で、お勤めができました。
本堂だけでなく、中宗堂でのお勤めも携帯電話越しで一緒にされて、ご文章もしっかりとお聴聞され、さらに短いお話も聞いてくださいました。
「ご迷惑じゃないですか?お手間じゃないですか?」
と何度も恐縮されながらも、久々に一緒にお勤めできたのがとてもうれしかったご様子で、「それではまた明日同じ時間に。ようこそようこそのお参りでございました。」と電話を切りました。
蓮如上人がこの吉崎にいらっしゃったときから始められた「日常の勤行」。
電話を切った後、蓮如上人の方を振り向くと、いつものと変わらず静かに座っていらっしゃいましたが、まさかこの吉崎と、吉崎から遠く遠く離れた場所とで、こんな小さな機械を通じて一緒にその「日常の勤行」をお勤めできるということに、内心とても驚かれているのではないかなぁなんて思いましたが、きっと蓮如上人であれば、
何が驚くことがあろうか、驚くべきことは、
「無始曠劫よりこのかたのおそろしき罪とがの身なれども、弥陀如来の光明の縁にあふによりて、ことごとく無明業障のふかき罪とがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚の数に住す」(帖内御文章 二帖十五通)
ことであろう
と、おっしゃられるかもしれません。
なんまんだぶ
毎朝晨朝勤行にお参りに来られてた方から、荷物が届き、その上先ほど電話をいただいた。
荷物には、室内履き用のサンダルと、スピーカーのカバーに添えて、お手紙も入っていた。
慈海がいつも履いていたサンダルは、何度も壊れてそのたびに紐や針金で修理しながら使っていたのだけど、それに気づいてらしたようで「サイズ合うかしら?」と似たものを探して買ってこられたようだ。
スピーカーのカバーというのは、本堂にあるスピーカーには埃避けに黒いビニール袋をかぶせてあったのだけど、それの代わりにと、黒い布を繕ってカバーを作ってくださったという。
サンダルも、カバーも、まさか、そんなところを見てくださっているとは思わず、添えられていた手紙を読む手が震えた。
そして、先ほどお電話をいただいた際、そのお礼を伝えると、その方がなんだか言いにくそうに「あのぉ、お願いがあるのだけど…」とおっしゃる。
どんなお願いかと思えば、なんと、晨朝勤行の際に携帯電話越しでお勤めの声を聞かせてほしいということであった。
その手があったか!とうれしくなって、それじゃ明日の朝から早速そうしましょうかとお話しすると、「ご迷惑じゃない?ほんとにいいのかしら?」ととてもとても喜んでくださった。
ここしばらくまた一人のおあさじで、少し寂しい感じもしたけれども、お姿は見えなくてもまたご一緒に朝のお勤めができる。でも、携帯電話越しだとちょっと大変かもしれないから、何か他にもよい方法がないかなぁ。ネット経由は難しいし、やっぱり、しばらくは携帯越しかな。
お勤めの際に携帯を持ちながらというわけにはいかないから、スピーカーホンにして、畳に置いて、お勤めする感じになるだろうか。
なんだか、また朝のお勤めが楽しみになってきた。
なんまんだぶ