祖母の口から聞いたお念仏とは違うけれども

大量の大根とみずなをいただいた。
キッチンを探すとシーチキンをひと缶みつけた。これもずいぶん前にいただいたものだ。

祖母がよく作ってくれた「菜っぱの炊いたん」には時々シーチキンが入っていた。慈海の大好物でお浄土参りの前に今生最後に食べたい三品のうちのひとつだ。(あとの二品は「茄子の揚げ浸し」と「油揚げの味噌汁」。あ、あと白いご飯も!)

祖母がつくってくれたあの味はもう再現できないけど、なんとか真似てやってみようと、いただいたみずなとシーチキンをフライパンで炊いてみた。お昼に食べるつもり。ちょっと味見したら少し苦かった。祖母のとはなんか違うけれども、すこし思い出す味わい。

慈海が口にするお念仏もそうだわなぁ。

祖母の口から聞いたお念仏とは違うけれども、聞こえてくだる味わいは全く同じ。

なんまんだぶ

「仏様に奉仕する」ことを望みながらも

昨年の秋から毎朝おそうじをてつだってくださり、お晨朝お参りされるようになった方が、仕事の都合でお掃除の手伝いができなくなってしまったとのことでした。

「お参りだけは何とかできるようにしようと思って」
とお晨朝だけはお参りされるのですが、掃除ができないことが残念だとおっしゃるのです。

慈海であれば、できるだけ朝は遅くまで寝ていたいし、体動かすの面倒だし、朝から汚れるのもうっとうしいし、そのあと正座するのもしんどいし、っていうか頑張ってても誰も見てくれるわけでもほめてくれるわけでもないし、そもそも自分の家でもないし、掃除できなくなったからって残念に思うことなんて全くないだろうなと思うのです。

この方だけじゃなく同じように「仏様に奉仕する」ことを望みながらもいろんな事情でできない多くの方々がいらっしゃるんだと思うのです。

身近なところで言えば、慈海の祖母もそうだったかもしれません。祖父だってそうだったかもしれません。できないからせめてと乏しい家計から少なくない懇志を包み、事あるごとにこの吉崎にも、ほかのお寺様にも、もちろん御本山にも納めてこられたんだと思うのです。

慈海は現代の合理的な教育を受けてきたので、どうしてもそういうところが理解できません。できないけれども、尊いと思います。掃除ができないことが残念と思われる姿が、ありがたい姿と思います。

やもすれば「社会的な責任」とか「生活のため」となってしまいがちな「働く」ということは、「端(ハタ)を楽(ラク)にすることやぞ」ということなのだと昔聞かされました。

端(ハタ)というのは隣の人、他人ということでしょうか。他を楽にするために体を動かすのだということでしょうか。それはつまりは他の荷い(ニナイ)を背負うということでしょうか

慈海にはそんな殊勝なことはできないし、自分のことで精いっぱいで、他人の荷いを背負うなんてカッコつけたことは到底できませんけれども、今ここで、こうして奉公させてくださっているということは、「お掃除したいけどできないの…」とおっしゃる方々のその荷いを、背負わせてくださるそういうことなのかもしれないなと、なんだかかたじけない思いになりました。

今の時期は風が吹くたび花粉が降り積もり、外に面した床はすぐに真っ白に汚れていきます。メンドクサイ ウットウシイ とモップをかけながらも、ありがたいことをさせてもらってるんやろうなとふと思うと、申し訳ない気持ちにもなります。

なもあみだぶ

念力門をくぐるときには日がさしてきたように

過去のことばかりを思っていてもしょうがないことではありますし、今ではなんだかいうのも恥ずかしい気持ちになってきていますが、8年前の今日この時間、7日間の行脚の果て、この吉崎別院に到着しました。

得度を受けることを決め、何を血迷ったか得度の後京都から吉崎まで歩くと妄言を口から滑らせ、言った手前歩くしかないやろとなかばやけっぱちで計画を立て、自他ともにもって三日間と思っていたのに、途中雪で通れなくて泣く泣く電車を使った部分はありましたが、とうとう240キロ歩いてしまいました。

今思えば、なんで歩いたのかも、なんで歩けたのかもわからないです。

その後、70の齢を超えても毎年御影道中で京都までを往復歩いてらっしゃる方と出会ったり、まぁなんというか、たった一度片道だけを歩いただけで、なんかおれ達成した的なことを少しでも感じていた自分が恥ずかしくなりましたけれども、それでも、あのときの七日間は、お念仏と共に歩かせてくださった七日間でした。

それから、吉崎は慈海にとっての原点のような場所になりました。

その、吉崎でご奉公するようになったのが今から3年前です。まさか、吉崎まで歩いた時にはここでご奉公することになるなんて微塵も考えていなかったし、想像さえもしてませんでした。何の因果でこうなったのだろうと、時折念力門を見上げながら、ぼんやりと考えていたりします。

未だに、自分がなぜお念仏をするようになったのか、なぜ仏教に興味を持つようになったのか、なぜこの吉崎にそこまで思い入れを持つようになったのか、はっきりとはわかりません。

「引く足も 称える口も 拝む手も 弥陀願力の不思議なりけり」

の古歌のとおり、そんななぜ今私がここにいて、なぜ今私の口からお念仏が聞こえて、なぜ今私は仏に手を合わせているのか、わからんまんまで、わからん自分の今のこの姿が、忌々しくもあり、尊くかたじけなくも思えます。

あの日も、吉崎に差し掛かるころには天の雲は厚く、時折冷たい雨が降り注いでいましたが、念力門をくぐるときには日がさしてきたように思えます。

なんまんだぶ

ドラ息子は「そうやね…」とだけいって

ふきのとうがではじめたということは、外掃除がまた徐々に忙しくなっていくということです。お疲れ様です。

週に一度は父母と食事をするようにしているのですけれども、外食をした後実家に戻った時には、母は何を食べたのか、一緒にどこに行ったのか、そもそも食事をしたのか、外出したのかどうかさえも忘れてしまうのが、いつものこと、平常運転、通常運行、デフォルト状態、初期設定、になってきていて、別に驚くこともそのことにショックを受けることもなくなってきました。

父は時折「分らんなっていくのが、もつけねぇ(かわいそう)や…」と憐れんで泣くこともありますが、それに向かって「かわいそうというのは傲慢なことや。」なんて白々しい分かったようなことをいうことこそが傲慢なことで、父だってそんなことはわかっているけど、つい息子にそうやってグチをいいたくもなるものなのでしょう。ドラ息子は「そうやね…」とだけいってただ聞いているのでした。

人の姿も心の中も、外に出てくる見えてる部分なんて言うのはほんのわずかなことだけで、そのわずかなことだけをやり玉に挙げて、他人の姿も心の中も、決めつけてしまってしまった方が、よっぽど楽な生き方でしょうし、それはそれで、世間を楽に生きる上では楽なことかもしれません。まぁ怠惰とは思いますけど、怠惰が悪いことということではありません。

忘れてしまう母も、憐れむ父も、それはそれで母の、父の、表層に現れてきた微かな澱(おり)のようなもので、それが母の、父の、すべてではありませんでした。

外に見えるものは、外に見せるものだけ。
外に見せられないものは、外にみせられないものだけ。
どちらが本物かなんてことは、くだらない思考遊戯でしかないので、まぁ、わからんものは、わからんのです。わからんものは、わからんまんまにしておくしか、無いじゃないですか。

母はいずれ私を忘れるかもしれません。
わたしを忘れる母をさえも、私自身がいずれ忘れていくでしょう。

おぼえていることや、しっかりしていることが、その人を構成しているわけではないのです。

わからんまんまに、慈海は祖母のまねをして、なんまんだぶ とつぶやきます。なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ と叫ぶように夜の吉崎でうろついていることもあります。

祖母と同じお念仏ではありませんが、出てくるものは、きっと同じものでしょう。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ