今この慈海の手の上に、形見が

御同行である法友のお父様が御往生された。

そのお父様とは直接面識があったわけではないけれども、いろいろと思うところもあったので、通夜式にお参りにうかがった。

会場についてお焼香すると、喪主であるその友人が、ぜひ通夜勤行に出勤してほしいという。先方のご住職様にも恐縮していったん断るのだが、「席を用意しているんです」との声にもったいない申し出と、出勤させていただくことにした。

そして、先ほど、そのお礼ですと荷物が届いた。
その中に、布教用のお念珠が3つ入っていた。使い古された様子が、おそらく、亡くなられたお父様の形見なのであろう。

「形見は受け取るものがいて初めて形見となるのです」
と、お取次ぎで常々慈海はお話ししていることがある。この慈海がお念仏を申すこの「なもあみだぶ」の一声は、如来様のお形見である。それを受け取られた御開山聖人が形見として相続してくださった。蓮如さんがまたそれを形見として相続され、脈々と無数の念仏者の方々が形見として、この慈海の口にまで相続してくださった。

お念珠の色褪せた房に、そのお父様のお念仏がしみ込んでいるように思えた。あぁ、慈海よ聞けよ、聞けよ、聞いた話をまた多くの方と供に聞いて来いよ。

何のご縁か、今この慈海の手の上に、形見がある。この口に形見が聞こえてくださる。

「お取次ぎ」ということに、ここ数日すこし迷いがあった。受け取ったものを、そのまま相続していらっしゃいと、諭されたような気がして、お念珠に手を通し、少しくまたお念仏を申した。

なんまんだぶ

降りてみたらまたこの娑婆世界

 

車を走らせていたら窓からバッタが飛び込んできた。

急に飛び込んできた乗客に慈海も少々慌てたけれども、緑の草原を飛び回っていたはずがなぜか見慣れない景色に閉じ込められた状態になったバッタの方もびっくりしただろう。助手席の上をウロウロと歩くバッタを、運転に気を付けながらチラチラと眺めていると、なんだか可笑しくも愛おしい気持ちにもなった。

運転中なので手でつかんで外に出すわけにもいかず、自分で出て行ってくれたらいいなと窓をすべて全開にしたら、しばらく躊躇した様子を見せたあと、「ばたたたっ!」と窓から飛び出ていった。

再び緑の景色に戻った彼だか彼女だかは、ほっとしているだろうか。今起きた数分ほどの出来事が、まるで夢の中の出来事だったかのように思えているだろうか。それにしても、その夢から覚めた時には気が付けば元いた場所とは違った見知らぬ場所。いったい自分に何が起きたのかさえも分からないまま、また緑の草の中を飛び回っているのかもしれない。

如来様のご縁に「あう」ことは「遇う」という漢字を用いて書かれることが多い。

「遇」の字には”たまたま”とか”思いがけなく”の意味がある。だから「遇う」には単に「出会う」というだけではなく”思いがけなく会う”という意味があるそうだ。ちなみに部首にある「禺」は”両方から”という意味だそうで、「遇」の字には”両方から会う”という意味もあるようだ。*

出会いがしらに偶然、ひょっこりと出会うということ。そこには驚きがある。出会うことを全く予期しないもの同士が、ばったりと出会うのだ。まるで先日のバッタと慈海だ。バッタだけにバッタリ……(;’∀’)ゲフンゲフン…

如来様のご縁にたまさか遇って、作願の大船に乗せられて、降りてみたらまたこの娑婆世界であった。まるでお浄土参りじゃなかろうか。

そんなことをバッタが車から降りていった後にぼんやり考えてたら、楽しくなってまたお念仏が自分の口から聞こえてきた。それにしても、もしかするとこの私が如来の御名を「なもあみだぶつ」と口ずさんでいることに、如来様の方も、奇なるかな!と慌ててらっしゃるのかもしれない。

なんまんだぶ

吉崎の朝は、一切が大悲を演舌しているか

少し疲れがたまってきていたのか、なんだか今朝は体が重くて、掃除もあまりできず、おあさじの準備も「しんどいなぁ」と思いながらダラダラとしてしまいました。

お勤めも声を出しづらいし、足もしびれるし、いつものようにお参りの方もいらっしゃらないので、ぼんやりとしながらお勤めをしていると、「お勤めご苦労!」と元気な声で近所のおじさんが、栗の入った袋をもってお御堂に入ってきました。

「なんでも(どんなふうに食べても)うまいからな!栗ご飯もいいな!」

ぶっきらぼうに差し出された袋を受け取ると、おじさんの顔が朝日に照らされてツヤツヤしてました。早速仏様にお供えしましょう!と恭しく仏前にお供えをすると、ニコニコ顔だった表情が急にキリっとした表情になって、静かに頭を下げていらっしゃいました。

お勤めの続きをして、また振り返った時にはニコニコ顔にもどっていて、ご文章の話やら世間話やらでにぎやかなおあさじになりました。

おじさんが帰った後、お供えした栗をお下げしながら、まるでだらだらとした気分でおあさじをしていたのを見透かされたのかなぁと、申し訳ない気持ちになり、掲げている栗の袋がよりずっしりと重く感じられました。

もしかすると、仏様やら蓮如さんが励ましてくださっているのかもしれません。

栗を洗っていると、にょろにょろと栗の堅い皮を破って虫が這い出てきました。必死で這い出てくる虫の様子に「横超」の言葉を思い出します。慈海は堅い皮を破ることさえも這い出ていくことさえも考えもせんのになぁ。それにしても、これはうまそうな栗です。

台風が近づいているからか、湿った南風で今朝は少し温い青空です。おじさんが帰ってからはより一層静かに感じられる境内を、トンビがヒョリョリヨヨロロと鳴いて飛んでいきました。

吉崎の朝は、一切が大悲を演舌しているかのように思えるときがあります。その真ん中にいるのは、なにもしていない慈海ひとりでした。

なんまんだぶ

放光寺さんでの報恩講法要無事御満座

放光寺さんでの報恩講法要、きょうの日中法要(午前10時からの法要)をもって無事御満座を迎えました。

ちゃんと数えたわけではないですが、例年よりもお参りの方が多く、お御堂が少し狭く感じました。気のせいかな?

ご講師は、昨年と同じく三国町受恩寺住職、長尾先生でした。長尾先生は慈海と歳が近いこともあって、コーヒーだけで一晩語りあかせる(つまりシラフで)、数少ない法友の一人でもあります。軽快で耳にやさしい語り口、分かりやすくお取次ぎくださるので、うちの村の方々にもファンが多いです。

さて、今年の放光寺さんの報恩講が済んで、いよいよ秋本番だなぁって感じがしてきました。まだまだこれから予定に追われる時期がしばらく続きますが、それが落ち着いてきたころにはもう冬です。

仏事に追われる生活をしている自分が、ふと不思議に思えます。とある方が以前おっしゃっていた通り、ふと目を覚ますとスーツ姿で会社のトイレの中でお念仏ぶつぶつ呟いていた姿のままじゃないかと思う時があります。

吉崎に帰る車の中、夕暮れの北潟湖がとても静かで、やっぱり今まだ夢を見ているのかもしれんなぁという思いがはなれませんでした。

この夢が覚めたときに、自分はどこにいるのでしょうか。

なんまんだぶ

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