• お知らせ
  • 聞見会新聞
  • 口耳四寸記(慈海ブログ)
  • 聞見会について
    • 聞見会について
    • 「聞見会」という名称
    • 寄付のお願い
  • 動画
    • 御文章どうでしょう? 01 はじめに
    • 御文章どうでしょう? 02 「聖人一流章」(1)
    • 御文章どうでしょう? 03 「聖人一流章」(2)
    • 御文章どうでしょう? 04 「聖人一流章」(3)
聞見会

お念仏の会

月別: 5月 2018

宗祖降誕会ということ。

2018年5月21日 by 慈海

本願寺派の寺院では、今日「宗祖降誕会」の法要がお勤まりになってらっしゃるところが多いのではないでしょうか。

新暦での5月21日は、宗祖親鸞聖人(御開山聖人)がこの娑婆世界にお出ましになられた日であります。聖人の門徒たるべきものは、この日を縁として、宗祖親鸞聖人がおすすめくださった「一流の安心(あんじん)」を心にかけ、仏恩報尽のお念仏を申す日であります。

「お誕生日おめでとう」な日ではないです。
おめでたいのは、この私です。むしろ、御開山聖人がこの娑婆世界にお出ましになられなければならなかったそのことを慙愧すべき日でもあります。私がいなければ、わざわざ御開山聖人はこの濁世にお出ましになる必要はなかったわけです。

私に念仏を申させ、極楽浄土に往生させ、仏果を得させしめんとして、御開山聖人はこの世にお出ましになられた。

「誕生会」ではなく「降誕会」と先人がこの日の法要を名づけられ、ご本山でも各寺院でも今でも「降誕会」として法要をされ続けているその理由に少しは思いをはせたいものです。

ちなみに…吉崎では宗祖降誕会は数年前から休座状態だそうです。なんとも寂しいです。今日はいい天気でお参り日和なのに、いつも通りの静かな境内です。

昔は、この吉崎別院でも降誕会の法要をお勤めになり、法要のあとにはレクリエーションをしていたそうです。しかし、参拝の方の数がほとんどなくなってしまい、レクリエーションだけが地域のイベントとして近くの公園で毎年行われるようになったそうです。(日程も夏の時期に代わりました)

イベントごとであれば、別にお寺でやる必要はないですからね。都会ならまだしも、田舎ならイベントごとをやるスペースはたくさんあるもの。

ともかく、蓮如さんであれば、そのことよりもなによりも、「それ、解脱の耳をすまして渇仰のかうべをうなだれてこれをねんごろにききて、信心歓喜のおもひをなすべし。」と仰せになられるような気がします。

なんか似たようなことを毎年花まつりの時期にも言ってる気がするけれども、ま、同じことです。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 宗祖降誕会

河合隼雄著『影の現象学』を読んでいる

2018年5月20日 by 慈海

キレイな言葉ばかり並べてたまに鬼もかまってあげないと心の暗いところが、スネます。スネまくります。

河合隼雄著『影の現象学』を読んでいる。読ん”だ”ではなく、読んで”いる”と進行形であるのは、まだ読み終わっていないからだ。300ページほどの文庫本で、それほどボリュームがあるわけではないのだけれども、少し読んではしんどくなって栞をはさみ、しばらくしてまた開いて数ページ読んでと繰り返していて、読み始めてひと月ほど立つのだけれども、なかなか読み進めることができずにいる。

以前から興味がありながらも、なんとなく購入する踏ん切りがつかず、「その時」が来たら買って読もうと、特に誰かにかってもらうことを期待するわけでもなくアマゾンの「ほしいものリスト」に入れておいた。それを、もったいないことに、とある方が先日購入して贈ってくださった。突然届いた荷物の封を開けてこの書物のタイトルが目に入った時、正直なところギョッとした。まるで「その時は、今ですよ」と言われたような気がした。

最近特に、この「浄土真宗」というものに対して胸の奥に引っかかりを感じ始めていた。「救い」ばかりを説き、まるでこの今私がいるところが浄土でもあるかのような、なんともきらびやかで嘘くさいそんな教説に、嫌気がさしはじめていた。違和感を感じながらも自分自身がまた、その、机上の空論のような「救い」ばかりを口にしていた。それはまるで、この世が、この私が生きるこの娑婆世界が、本来は浄土であるかのようなそんな欺瞞であった。もしくは、この一切皆苦のこの娑婆世界を浄土にでもしていかねばならないようなそんな傲慢さが、また自分の胸の中で激しい嘔吐にもにた感情を誘うのであった。

この娑婆世界に浄土を作るということは、それは同時にこの世に地獄を作るということと同義である。光があるところに影がある。影がなければ光はありえないのだ。この世を浄土にしたいのであれば、この世に地獄を作らなければならない。地獄のない浄土はない。この私が生きている場所が浄土であるのであれば、同じく同時にこの世が地獄でなければならない。

このお念仏の教えを聞くようになって数年。私はこの世界を光としてみながら、私が立っているこの場所の、この世の地獄を、闇に封じていってしまってやいなしないか。

褒められることが多くなった。吉崎に来てからは特にそうである。私は、褒められるような人間ではないから、逃げて逃げて結局吉崎に流れ着いただけのものでしかなかったのではないか。しかし、そう思っていてもなお、褒められると嬉しいのだ。自分自身でさえ認めることのできないこの自分自身を、認めてもらえ、そこにいていい言われること以上の快楽はない。そして、まるでそんな快楽に酔い潰れていくかのように、良い人に思われること、良い僧侶に見られることにばかり、心を使いはじめていやしなかったか。

光ばかりに目がくらんでいたこの慈海の手元にこの本が舞い込んできた。まるで、命のエネルギーというものがあるのであれば、その全てがこの手元の上にのしかかってきたかのようだ。「私」というものがこの活字の中にあるかのようなそんな錯覚さえも憶える。

だから、ページの一枚一枚が、重い。

そんな重いページを開いている途中、「無量寿経」の文字が目に入る。この本の中に、無上の仏国土が引用されていた。あぁ、なんてことであろうか。なんてことで、あろうか。

まさか、まさか、まさか、仏教書でもなんでもないこの本を開いて、嗚咽しながらお念仏が溢れることになろうとは。

今、読みきらねばならない。この本は、今読みなさいと言われている気がする。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 影の現象学, 河合隼雄

大千世界にみてらん火をも過ぎゆきて、なもあみだぶ が聞こえる。

2018年5月10日 by 慈海

二年たっても相変わらず透明なお湯が溜まらないので(ボイラーの中が錆びている)、たまに下山してあわら温泉にお風呂に入りに行っている。温泉宿によっては、宿泊しなくても時間帯を限ってお風呂だけ入らせてくださるところがあって重宝している。銭湯替わりに温泉というのは、なかなか贅沢だ。

先日火災で全焼した「べにや」さんにもこれまで何回か入りに行ったことがあった。あわら随一の老舗旅館で、詳しい方が言うには泉質が一番良いのがこの「べにや」さんだったらしい。たしかに、本当の源泉かけ流しで、少し塩気の味がするお湯だったので、真冬であってもお湯から出た後一晩中体が熱いくらいに温かくなった。

御忌の疲れが残ったままな感じだったし、プライベートでもちょっといろいろ続いてなんだか気分が塞ぎぎみでもあったから、こんな時はそんな「べにや」さんの温泉に入りたいところであった。しかし、先にも書いた通り先日火災に遭われて全焼してしまったので、近くの別の温泉宿に入りに行った。

「べにや」さんの前を通ると、見事なまでに焼け崩れていた。ニュースで聞いていた以上に広範囲が炭と化していた。おもわずため息に混じって声が漏れた。

幸いにもケガをされた方も亡くなった方もいなかったようだけれども、「べにや」の方々はどんな思いで火柱を上げながら崩れ落ちていく様子を眺めていたのだろう。想像してすこし身震いがした。

吉崎も火事が多いところである。蓮如上人が御逗留されていらっしゃった際にも、吉崎御坊が火災によって灰塵に帰した。その際の逸話として有名なのが「本光坊了顕腹籠りの聖教」である。

吉崎御山の上の坊舎が火に巻かれたとき、顕浄土真実教行証文類の証巻が建物の中に残されていることを知った本光坊了顕が、上人の制止を振り切り火の中に飛び込んで、そのお聖教を見つけるや否や短刀で自らの腹を裂き、腹中にお聖教をおさめてお聖教を火の手から守ったという話だ。

この逸話をもとに、我々の勤行本の表紙が朱色になったという説もある。

この話が史実かどうか疑わしいとかいう方もいらっしゃるようだけれども、史実かどうかを確かめるよりも先に、思い出さねばならない御開山聖人の御和讃があった。

たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり
(浄土和讃)

大千世界を埋め尽くす火の海をかいくぐってでも、「なもあみだぶ」の一言、この仏名一声に、遇われて行かれた方がいらっしゃったのである。この私の口から「なもあみだぶ」の一声が、この私の耳に聞こえるということは、そういう方がこれまでに間違いなくいらっしゃったからこそなのである。

命よりも大事なことがある。たとえこの身が業火に燃やし尽くされることになろうとも、たった一声聞かねばならぬ言葉がある。そういうものがこの世界にはあるのだ。そういう世界に今この私が、火災の跡にでさえも身震いするようなこの私が、同じく、大千世界を燃やし尽くす火の海をかいくぐってこられた方と同じように、この「なもあみだぶ」の一声をこの口から聞かされているのだ。

焼け焦げた温泉宿の跡を眺めながら、私の足元を思わず見つめ、手が合わさる。私が今、立っているこの場所は、どこだ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: あわら温泉, たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて, べにや, 吉崎御坊, 本光坊, 本光坊了顕, 本向坊, 浄土和讃, 温泉, 火災, 蓮如上人

最近の投稿

  • 灯台もとくらし
  • 学習能力が無い
  • そしてまたご一緒に
  • だからねぇ……
  • 忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです

アーカイブ

2018年5月
月 火 水 木 金 土 日
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  
« 3月   6月 »

Copyright © 2025 聞見会.

Omega WordPress Theme by ThemeHall

 

コメントを読み込み中…